丸いガーデンテーブルに三人の男性が腰を下ろしていました。三人とも同年代にみられ、僕よりいくらか年上だと感じられました。ちなみに僕は「中年」よりも「壮年」といわれる年齢層になっています。
そのテーブルは、スキー場施設内にある飲食ブースの前に置かれています。そのブースで購入したものを飲食するためのテーブルに見えますが、そうしなくても休憩のために利用することも認められているようです。
そこでひとつの丸いテーブルに、同年代の三人の人物がついているのですから、“おそらく”この三人は仲間同士なのだろうと思います。
“おそらく”をつけるのはそのテーブルに会話がなかったからです。三人とも、スマートフォンを手にして、それに集中していました。
そのわきを通り過ぎながら、ふと『今はみんなが、どこでもスマートフォンをいじっているなあ』などと思いました。
それだけでした。つまり特に違和感などはなく、“よく見かける日常の光景”として受け入れていたのです。
15分ほど後、再びそのテーブルの前を通ると、同じ光景がありました。
周囲を見回すと、ベンチに並んで座っている数人が、みなスマートフォンに集中していました。全員が他人同士なのか、全員が仲間や友人同士なのか、何人かが友人で、何人かがたまたま隣に腰かけた他人なのか、その様子から判じかねました。
思い起こすと、テーブルに向き合っていながら、互いに黙ってスマートフォンの画面に集中している様子を目にすることがあります。
テーブルで向かい合っているのですから、おそらく友人や知人や恋人同士なのだと思います。
そしてその光景も“日常でよく見かける光景”だという気がします。
つまりその光景に違和感がないのだと思います。
しかしふと、いつからこのような光景を“当たりまえ”だと感じるようになったのだろうという疑問が浮かんできました。
そうなるとこと、いつからこのような光景を見かけるようになったのか考えることになります。
それを考えると、やはりスマートフォンが普及してからだと思います。
個人的な感覚では、“つい最近”です。
そこで、まだスマートフォンが世に現れる前を思い出してみました。
今から10年ほど前、携帯電話をいじっている光景は頻繁に目にしていたと思います。
『みんなメールでもしているのだろう』
そう思っていました。
今から5年ほど前も、携帯電話をいじっている光景は頻繁に目にしていたと思います。
『最近は携帯電話でインターネットが見られるらしい。それにゲームも出来るようだ。メールをやっている人もいるのだろう』
そう思っていました。
そこかしこで携帯電話の画面に集中している人を見かけていたような気がします。
一人で街角に立っていたり、駅のベンチに腰掛けたり、歩きながら、自転車に乗りながら、携帯電話の画面を見ている人たちを目にしたと思います。
恋人と向かい合いながら、友人とベンチに隣あっていながら、家族と夕食の宅につきながら、携帯電話を操作している人がいると耳にしていたと思います。
それはスマートフォンになっても変わらないのかもしれません。
そこで、まだ携帯電話が通話とメールが主な機能だったころを思い出すと、メールが着信したときは、一緒にいる人に断わって内容を確認し、必要があれば返信をして、携帯電話を閉じていたような気がします。
知人と一緒にいながら、あまり長い時間だまってメールに集中することは、よくないことだと社会で認識されていた印象あります。
一緒にいる人との関係や立場によっては、注意を受けたり、怒られたりすることもあったのではないかと思います。
それより前、携帯電話の機能が通話のみだったころを思い返すと、他者と同席しているときに着信したときは、断わってから席を離れて通話をしていたと思います。
そうはいうものの、あのころの携帯電話と、今のスマートフォンでは、まったく違うものだという話を聞きます。
ものが違うのですから使い方が違うのは当然だと思います。その使い方が違うのですから、使う状況も違うのは当たりまえだと思います。
それに、誰かと一緒にいながらスマートフォンに集中していても、それは通りかかった人間がとやかくいうことではないような気もします。
また、僕はスマートフォンで何が出来るのかよくわかりませんので、それを手にして画面に集中している人が何をしているのかわかりません。
ただ現在は、誰かと一緒にいる時間も、それぞれにスマートフォンを使っている時代なのだろうと思います。
そしてスマートフォンとはそういうものなのだろうと思います。