2014年1月18日土曜日

「車輪の下」 ヘルマン・ヘッセ著


 若い頃、読んだ小説です。いつか読み返そうと思っていたのですが、手を出せずにいましたが、先日ようやく手に取りました。

翻訳によるところも大きいと思いますが、全般に文学的な表現が多用されていると感じられます。ただ難解な表現ではないため、読む者の感性にはたらきかけているような気がします。

 

主人公の少年の心情を言葉によって本当によく描いていて、それが伝わってくるような気がします。

少年が自覚している心の動きと、自分では気付かない心理の、どちらも読者に伝わってくると思います。

それは時に瑞々しさを感じますが、時に危うくもあり、痛々しくもあり、そしてせつなくもあると思います。

 

主人公の少年は、押しつぶされないように必死になって全身をこわばらせているように感じます。しかし彼を轢こうとする車輪は容赦なく迫ってくる、そしてその引き手に自分自身の姿があることに気付いてない、そんな印象を受けました。

そのようなことは現実社会でも、たびたび見られるのではないかと思います。そしてそれは、社会が変わってもなくなることはないのかもしれません。

かつて「受験戦争」という言葉を頻繁に耳にした時代がありましたが、”車輪”は様々な形で、この世界に無数にあり、それは決してなくなることはないような気がします。

 

しかし人はそうとは気付かぬまま、自らを押しつぶそうとし、大切な人を車輪で轢こうとするような気がします。

そんな世界では、自分を守ること、大切な者を守ることが必要だという気がします。

そこに正しい方法などないのかもしれません。一人ひとりが、自分なりの術を見出していくしかないのかもしれません。ただ、彼には誰かが必要だったように思います。しかし彼の周囲には誰もいなかったように思います。

 

相談する相手は自分で選ぶものだと思います。相談しなさいといわれて、相談する気になるものではないと思います。相談をしてもらいたいのなら、”相談する相手”に選ばれなければならないと思います。

後になって頼って欲しかったといっても、それは頼る相手として選ばれなかったのだと思います。

頼るに値しない人だと思われたかもしれません。頼るべき相手だとみなされなかったのかもしれません。

 

”この人に相談したら、心配するだろうな”とか”この人に相談した迷惑かもしれないな”とか”この人を巻き込みたくはないな”などと考えて相談しない場合もあると思います。

ただ、”この人に相談してもしょうがない”、そう思う人には相談しないと思います。

 

子供のころ、大人は自分達とは別の世界の生き物だと感じていました。

別の世界の生き物に、自分のことなどわかるはずがないと思ったこともありました。

端から大人なんて、頼りにならないと思ったこともありました。

それに、大人に相談するなんてかっこ悪いと思ったこともありました。

大人たちは自分達とは違うという感覚がありました。それは”壁”だったと思います。その壁は自分自身で築いたのかもしれません。

 

それに、大人に頼ると、なんとなく負けたような気がすることもありました。

自分自身にも、他者にも負けたように感じたのです。

 それは自分で自分に弱さを突き付けながら、それを認めるのを拒んでいたように思います。

誰かに頼りたいと思いながら、自らそれを潔よしとせず拒んでいることがあると思います。

 

”他人にわかるはずがない”と決めつけていた、というかそう思い込もうとしていたような気がします。

本当にわかっていなかったのは自分かもしれません。

しかし、他人にわかったような口ぶりをされることが、本当に嫌だと感じることもあると思います。

 

自分でさえわからないのですから、他者のことなどわかるものではなのかもしれません。。

大人だろうが子供だろうが先生だろうが社長だろうが博士だろうが監督だろうが、誰もが、本当に他者のことをわかることなど出来ないのかもしれません。

ただ、それでもなんとか力になりたいと思っている人がいるかもしれません。

 

”生きること”はこの世界そのものかもしれません。

生きているからこそ、この世界を感じとれるのだと思います。
そしてこの世界を感じ取るには、とても長い時間が必要だと思います。一人の一生で感じ取れるのは、この世界のほんの一部でしかないと思います。今、感じているには、世界のほんの一部の、ほんの一瞬でしかないと思います。それほどに世界は大きいと思います。だから、今いる場所とは違う場所がいっぱいあると思います。この世界には、今とはまったく違うことを感じられる場所が必ずあると思います。生きているからこそ、そこにいく