2014年1月14日火曜日

あの日ぼくが泣いたわけ


“外に出たいよう”

「どうしたの?」

“外に出たいんだってばあ”

「さっきミルクを上げたばかりでしょ。オムツも濡れてないし。どうしてそんなに泣くのよ?」

“だから外に出たいんだってばあ。どうしてわかないんだよう”

「もう、どうしたのよ。私を困らせないでよ」


まだハイハイも出来ないころ、つまり自分の意思で移動することが気ない赤ちゃんのころのことです。

天気のいい日で、窓から日差しが差し込んでいました。 僕は外に出たかったのです。

そして一生懸命それを訴えるのですが、親は外に連れて行ってくれません。

そのためなお強く訴えるのですが、それでも親は家の中で僕を抱き上げるだけです。

僕はさらに強く訴えたのです。

僕が訴える手段は、泣くこと以外にありません。

だから僕は一生懸命、大声で泣きました。


 以前、書いたことがありますが、これは僕が赤ん坊だったころの記憶です。

 ただ本当に乳幼児だったときのことを覚えているのではないかもしれません。

人間の記憶は、コンピューターのデータ保存のように正確なものではないと思います。無自覚に自ら記憶を編纂し、それが絶対的な事実だと思い込んでしまうことは、稀ではないと思います。


たとえば、小学生のころに乳幼児の気持ちを想像して、それを自分の記憶だと思い込んだのかもしれません。

あるいは、中学生のころ赤ん坊が話しているアニメをみたことを、少し内容を変えて自分の記憶として頭の中にしまい込んだのかもしれません。

ただ現時点では、本当の記憶なのか、別のことをそう思い込んだのか、自分で作ったものなのか確かめようがないと思います。

脳科学が進歩すれば、いずれ記憶が出来上がっていく過程を客観的に示すことが出来るかもしれません。


僕の知るかぎり、今はまだそんなことは出来ませんので、ここで書くことも想像でしかないのですが、赤ちゃんが泣くのには、泣く理由があるからだと思います。

冒頭で書いた時の僕は、屋外に出たかったのですが、お腹が減っていたり、オムツが濡れていて不快だったり、暑かったり、寒かったり、臭かったり、体のどこかが痒かったりしていて、それを訴えて泣いたこともあったと思います。

“お腹が痛いよう”とか“頭が痛いよう”とか“気持ち悪いよう”など、深刻な理由で泣いたこともあっただろうと思います。


また、赤ん坊ですので、そのように明確に要求を認識していないこともあるかもしれません。

なんとなく恐いとか、なぜかちょっと不安だとか、漠然と嫌な感じがしていて、それを訴えていることもあると思います。


また、何かを求めているものの、合理性がなかったり、不可能なことだったりすることもあると思います。大人でもそのような要求をする人もいるように見えます。

まして赤ちゃんですので、雪のなかに埋もれたいとか、親が食べているものを食べたいとか、犬の口の中に手を入れたいとか、走行中の電車から降りたいとか、飛行中の飛行機から降りたいとか、そのような理由で泣いているかもしれません。


しかし親を含めて大人は、赤ちゃんがなぜ泣いているのか知りようがありません。経験則と他者の経験則などの情報をもとに推察するか、あとは想像するしかないと思います。

それでは当たらないことも多いと思います。

偶然に正解しなければ、『屋外に出たいから泣いている』などと察してくれる大人はいないと思います。

僕の願いはかなえられず、だから僕は精一杯大きな声で泣き続けたのです。

別に親を困らせてやろうと狙って泣いていたわけではありません。

泣くことでしか、求めることを訴えられなかったのです。


あの時は自宅の中でしたが、公共の場や何人も他人がいるところで泣いたこともあると思います。

ただ、別に騒音をまき散らして、周囲の大人たちを困らせてやろうと思って泣いたのではんないと思います。


人間社会では誰かの利益になることが、他者の不利益になることがあると思います。

また、誰かにとって正当な意見と、ほかの人の正当な意見が相容れないこともあると思います。

誰もが自らが被った不利益を訴え、持論の正当性を訴えていると、ぶつかることもあると思います。

そうなると、社会には調整幅や緩衝材が必要だと思います。

何事も調整幅や緩衝材がないと壊れてしまうものだと思います。


『お互い様だよ』とか『まあ、しょうがないさ』は、人間社会の緩衝材になるような気がします。

自分の赤ちゃんが泣いているのに、ほったらかしてスマートフォンのゲームに集中しているのは親としての認識や責任感が足りないばかりが不道徳な行いだと思います。

一生懸命あやしているのに泣き止まず、困っている人に対して寛容に接することは、道徳的だという気がします。それは人間社会には不可欠な、緩衝材なのかもしれません。