大国の存在感が薄らいでいるという声を耳にします。
存在感は“感”です。
アンケートなどで数値化しているものがあるのかもしれませんが、多くの場合、印象をいっているのだろうと思います。
つまり“どのように感じるか”ということだと思います。大国は“存在感が薄らいだ”と感じられているのだと思います。
『存在感が弱くなった』をもう少し具体的に考えると、『外国に対する発言力が弱まっている』という感があります。
ではなぜそのように感じられるのか考えてみます。大きく感じられるのは、軍事力の行使を控えていることがあげられると思います。
それと経済状況がかつてのような勢いがないこと、リーマンショックによって世界中を巻き込んで景気が低迷したことも理由の一つだと思います。
またそれらが起きている時期に新興国が台頭してきたことで、相対的に影が薄くなった感があります。
個人的に感じることは、世界がそのような状況にある最中に、内政が混乱することが存在感を弱めた大きな理由だと感じます。
国内の政治に対立にかまけていて、外交や経済への対応に、人材や時間や力を注げていないと感じるときがあります。
そして、少し前の日本もそうだったと思います。むしろ日本のほうが“負の影響”が大きかったような気がします。
大事な時期に、大事なことをせずに、ひたすら内政にかまけていた、そうせざるを得なかった、それが“国”の足を引っ張ったという印象があります。
大国のことをいうと、軍事力の行使に積極的にではないことは、過去を振り返れば、もっともだという見方があると思います。
大国は今までに何度も軍事力を使ってきたように見られます。今まで何度もやってきたことですから、その影響の現れ方や、それがもたらした結果を吟味することが出来ると思います。
国として軍隊を動かし、その結果なにを得て何を失い、国はどのようになったかを振り返ることが出来るというこうことです。
外国に軍隊を送ったことで得たものと失くしたものをはかりにかけると、得していないような印象があります。
長い目でみると、何度も軍隊を動かしたことで国としては疲弊したのではないかと感じることもあります。
そして軍を動かす判断には、感情によるところも少なくなったような気がします。
指導者の感情、大衆の感情、それが軍事力行使の判断に思いのほか強く作用したように感じることがあります。
もしそうなら、そのような方向性は変えるべきだと考えられると思います。
また今の世界は、軍事力によって脅すことが、政治の手段としての有効性が弱まっていると感じられます。
争いが複雑になり、誰かをつぶしたからといって平和がおとずれるような状況ではなく、それは誰の目にも明らかだと思うこともあります。
つまり今の世界は、軍事力では積極的に平和を導くことが難しいということです。
しかし感情が、“軍の力でやっつけろ”という声をあげさせるような気がします。
現代は戦い方も、それに対する世界の声も昔とは変わっていると思います。
大きな力の差があったとしても、軍をつかって“やっつける”ことがむずかしくなっているように見えます。
泥沼化した状況に、別の力が加わることで、争いの構図をより複雑にすることもありうると思います。国によっては敵をつくってしまい、別の争いを生み出すこともあると思います。
そんななかで軍事力を行使しないことは、感情に流されない冷静で賢明な判断といえるような気がします。
しかし軍事力を使わないということは、力を振りかざさないことになるため、“威圧感が弱まった”という印象を受けた人が多いのではないかと思います。
それを“存在感が弱まった”と感じ、そう表現しているのだとみられます。
軍事力の行使は、軍を派遣する国にとっても、争いが起きている地域にとっても、良い結果をもたらさない可能性が高いと判断し、そのため“威圧感”が薄らいでしまうのは、ある意味当然だと思います。
しかしそれを“存在感が弱まった”といわれるのは、“印象”によることが大きいと感じます。
ではなぜ“存在感が弱まった”という“印象”を持たれるのか考えてみます。
一つには軍事力によって疲弊したため、軍事力を縮小しようという姿勢が、“印象”につながっていると感じます。
また景気の落ち込みと、そこからの回復がなかなか円滑にいかないことが、多くの人のイメージといるような気がします。
そして国内における政治対立によって、混乱や停滞が起きていることも“影が薄くなった”という“印象”につながると思います。
その対立には“価値観”と“現実性”がぶつかっていると感じることがあります。
また二大政党制の政治の形が、対立を収まりにくくしているように見えることがあります。
対立を激化させ、混乱や停滞があることが世界に報じられることで、多くの人の“印象”に影響を及ぼしているようにも感じられます。