2014年3月16日日曜日

サルの群れと人間社会


 少し前ですが、インターネットで野生のサルに関する実験を取り上げた記事を目にしました。

 その実験では、群れに属していたサルが、別の群れに移ったときの行動を調べたものです。

その実験によって、「試行錯誤をするより、他をまねる方がいいという戦略が野生動物でも取られている」と分析されるそうです。

 

 この実験は、一つのサルの群れには赤く色づけした美味しいエサと、青く色づけしたまずいエサを与えます。別の群れには色と味を逆にしたそうです。つまり赤いエサはまずく、青いエサは美味しいということです。

 そうなると、一つの群れのサルは赤いエサを食べるようになり、別の群れのサルは青いエサを食べるようになるのだろうと思います。

 

 この実験は野生のサルに対して行ったそうですが、そのサルは群れを替えることがあるようです。

群れを移ったサルは、以前属していた群れでは赤いエサが美味しく、青いエサがまずかったとしても、他のサルが青いエサを食べていると、それをまねるそうです。

その際、赤いエサは一切口をつけないようです。

つまり味見をせずに、他のサルが食べている色のエサを食べたということです。

 

 それがサルの戦略だと書かれています。それ以上詳しいことは書かれていませんので、この“戦略”が『生物として生きていくための戦略』か『群れのなかで暮らしていくための戦略』なのかはわかりません。

『生物として生きていくための戦略』ならば、他のサルが食べているエサは安全である、あるいはおいしいはずである、だからみんなが食べているエサを食べる、そういう戦略だと思います。

『群れのなかで暮らしていくための戦略』ならば、群れの中ではみんなと同じ行動をとるべきである、そうしないとつまはじきにされてしまう、だからみんなが食べているエサを食べる、そういう戦略だと思います。

 

野生のサルが生きていくには、群れで暮らす必要があると思います。そうなると、『群れの中で暮らしていくための戦略』も『生きていくための戦略』のうちだといえると思います。

ただ例えば、毒がある植物を食べてしまったのでは、群れのなかでの暮らしぶり以前に、生き物として生きていけません。

そう考えると、社会性に対する戦略の前に、生物としての戦略があるような気がします。

ここで書かれた“戦略”がどちらなのか、あるいはどちらでもなく別の“戦略”なのかわかりませんでした。

今回の研究では解明できないのかもしれませんし、今回の研究の狙いではなかったのかもしれませんし、ここでは書かれなかったのかもしれません。

 

そのため、書かれていることだけで推察して見ます。

この実験では、群れを移ったサルが、他のサルのまねをしたことによって、“いいこと”があったと思います。

おいしいエサとまずいエサがあるなかで、みんなの真似をしたために、まずいエサを一切口にすることなく、おいしいエサを食べられた、という見方が出来ると思います。

それはサルにとって“いいこと”だと思います。

もしまずいだけではなく毒が入っていたとすると、他のサルを真似ることで一切口にしなかったために、生きることが出来たといえるような気がします。

そう考えると、他のサルを真似ることは、生物として生きていくために有効だといえると思います。

つまり『生物として生きるための戦略』ということです。

 

では『群れのなかで暮らしていくための戦略』でもあるのか考えてみます。

つまり、新しく群れに加わったサルが、他のサルをまねるのは、その群れのなかで円満に暮らすためとか、群れの中で立場をよくするためなのだろうか、ということです。

それについては確かなことは書かれていないと思います。

真似をしなかった場合どうなったのか、書かれていないのです。

 

もし真似をしなかったサルが、他のサルから攻撃されたり、群れの中で立場が悪くなったりするのであれば、群れを移ったサルが、他のサルの真似をすることは『群れのなかで暮らすための戦略』といえると思います。

しかし攻撃されたり、群れの中で扱いが悪くなったりすることがないのであれば、他のサルの真似をすることは、群れでの暮らしぶりとはあまり関係がないとみるべきだと思います。

記事には、他のサルの真似をしなかったサルが、群れの中でどのような扱いを受けたのか書かれていませんでした。

 

ただ、「サルも郷に入っては郷に従う」という見出しがつけられています。

そうなると、群れを移ったサルが一切味見をせずに、群れの中のほかのサルと同じエサを食べるのは、『群れのなかで暮らしていくための戦略』だという趣旨になると思います。

 しかしそれは人間が人間の目で見ているためかもしれません。人間が人間社会を勝手に投影し、人間なりの解釈をしているのかもしれません。