“個人”のために“全体”が必要だと思います。
“全体”のために“個人”を抑えることも必要だと思います。
“みなは一人のためであり、一人はみなのためだ”といえるかもしれません。
生物が群れるのは、生き抜き、種を残すための、『生物としての戦略』かもしれません。
人間も生物です。人間が作った社会は、群れの形といえるような気がします。
生きるために群れを作ったのですから、その群れが壊れないようにすることは、自分のためでもあるといえるような気がします。
集団を円滑に運営し、維持し続けることは、一人ひとりのためになるということです。
そしてそれは、人間が生物として生きていき、子孫を残していくために必要なことかもしれません。
しかし人間にとって、社会はあまりにも当たり前にあり、あまりにも身近にあるようなきがします。
そのため、自分という個人が生物として生きていくために社会が必要だということを、意識しにくいものだと感じることがあります。つまり人は、社会という集団の重要性に気づきにくいということです。
そしてその傾向は強まり続けているような気がします。
日本は集団を重んじる国民性があると、何度となく耳にします。“全体”を重んじるために“個人”を抑え込むことが多いという趣旨の声も少なからず聞いてきたと思います。
それは村社会や鎖国などが影響しているのかもしれません。
そのような国民性は好意的に語られることもあれば、そうではない場合もあると思います。
“和を重んじる”ことはいいことだといわれることもあれば、“組織のなかで個人が生かされない”などといわれることもあります。
ただ個人的な印象ですと、何十年も前から、後者の声がどんどん強まってきたような気がします。
テレビなどのメディアの発達により、いろいろな国のことが知られるようになったと感じます。
その一つに、欧米では全体より個人を重視する意識が強いというものがあったような気がします。
日本人は西洋に対して、憧れのような感情を抱いているような気がします。近年それは薄らいできた感がありますが、30年くらい前は、欧米のことならなんでも好意的に感じやすかったような気がします。
個人を重んじることも、その一つだったような気がします。
また日本人の意識のなかに、集団のために個人を抑えることを、煩わしく感じたり、疎ましく思ったりしていた感があるのです。
だから欧米のように個人を重んじる風潮をうらやましく感じたような気がします。そして個人を重んじる意識が強まったと感じます。
その後、インターネットが普及することによって、その意識は急加速した感があります。
近年、権利や損益など個人に関する意識が強まるっていると感じます。また、情報技術の発達もあって、それを主張することが多くなっているような気がします。
そして主張はどんどん強まっていくような気がします。
ここでは何度も書いていますが、怒りの感情は反芻することで増幅すると思います。また発することで、高ぶるものだと思います。
“いやだ”とか“きらいだ”という感情も、その傾向があると思います。当初小さかったその気持ちが、どんどん強まっていくことがあると思います。
[赤ちゃんの泣き声がうるさい][運動会の音が耳障りだ][焼き魚のにおいがくさい][カレーライスのにおいが不快だ][白い壁に太陽が反射してまぶしい][黒い壁のおかげで周囲が暗い]
はじめは、少し“いやだな”とか“気になるな”という程度だったとしても、それはどんどん強まっていくことが多いと思います
自分がいかに迷惑しているかを、何度も何度も考えることも多いと思います。相手がどれだけ非常識であるかを、何度も何度も考えることも多いと思います。
いかに迷惑しているかを家族や友人に話すこともあると思います。相手がいかに身勝手か、インターネットに書き込みこともあると思います。
それらが、“いやだ”とか“きらいだ”とか“迷惑だ”とか“こんなに苦しんでいる”いう感情を増幅させることもあるような気がします。
そのような心理が強まることが、体調に影響を及ぼすこともあると思います。
心身に不調をきたし、それが仕事や、思わぬ出費など、普段の生活によくない影響をあたえることもあると思います。
そうなると、嫌悪感も怒りも被害者意識も、さらに強まるものだと思います。
個人の意識の強まりは、他者に対する寛容さの弱まりとつながることがあると思います。
他者に対する寛容の弱まりは、個人と個人の対立を強めることにつながることがあると思います。
個人と個人が対立することは、全体を壊すことにつながることがあると思います。
全体が壊すということは、生物として群れることを手放すといえるかもしれません。
人間は生物として生きていけなくなるかもしれません。