今朝、つくしが長くなっていることに気づきました。
少し前に、つくしの子が恥ずかしげに顔を出したのを見つけたのですが、もう随分長くなっています。
もう春なのだと感じます。
何度か書いているような気がしますが、子供のころつくしを大量に摘んで遊んだ覚えがあります。ただ、今ではその記憶も随分と薄らいでいます。
ゴールデンウィークだったような気がするのですが、今の時期につくしがこんなに伸びているのですから、もっと早い時期だったはずです。
そう考えると春休みだったのかもしれません。その記憶がいつの間にかゴールデンウィークにすり替わったような気がします。
友達と土手に行って、沢山のつくしを取ったのです。大量に摘んで、袋に詰めて家に持ち帰りました。ただそれだけのことです。
でも、とても楽しかったような気がします。だから薄らいでいるとはいえ、今でも記憶に残っているのだと思います。
つくしやたんぽぽは食べられると聞きますが、僕はどちらも食べたことはありません。
あの時も、多くのつくしを取って持ち帰ったものの、それを食べたわけではありませんでした。おそらく捨ててしまったのだろうと思います。
あのころは、どこにも土がみえる地面があり、どこにも草が茂っていたと思います。家の周囲にも土の地面が多かったというか、それが当たり前だったような気がします。集めたつくしはその辺に撒いたのではないかと思います。
あの日、つくしをなにか使うために、大量に集めたのではありませんでした。ただ単につくしを摘んで集めただけです。それ自体が目的であり、それ自体を楽しんでいたような気がします。
では、なにが楽しかったのだろうかと考えてみます。袋のなかのつくしが増えていくことに心地良さのようなものを感じたのかもしれません。
また、そこに茂っているつくしを取り尽くそうとしたのかもしれません。つくしを取った周囲を眺めて制覇したような気分になっていたのかもしれません。
ただ子供のやることですので、本当に土手のつくしを取り尽くすことなどなかっただろうと思います。
子供の感覚で大量でも、土手には取りつくせないほど無数のつくしが茂っていただろうと思います。
また子供は、何時間もつくしを取っていたら飽きてしまったと思います。楽しい記憶となっているのですから、飽きる前に夕方になり、家に帰ったのだろうと思います。
思い起こしてみると、姪がまだ幼いころ公園で遊んでいるとき、虫かごに収まりきれないほどセミを捕まえている子供と、抱えきれないほど藤の実を取っていた子供を見かけました。
幼い子供は、何かを大量に取ることに楽しさを感じるものなのかもしれません。
そんなことを思っていると、ふと今年の春はゆるやかにやってきているような気がしました。
個人的に春という季節がきらいなのですが、今年は“春が来ている”という感覚があまり強くないような気がします。
振り返ってみると、気温は上がってきているものの、穏やかに暖かい晴天が少ないと感じられます。
記録などを調べたわけではありませんので、あくまでも個人的に感じていることですが、晴天の日はあるのですが何日か続くことが少ないような気がします。また、その晴天も、晴れてはいるものの、なんとなく“春らしさ”のようなものが弱いような印象があります。
思い返すと、この辺の今冬は“冬らしさ”が強くなかったと感じられます。
全国各地では大雪による被害があったと聞きます。新潟県内でも、大雪に見舞われた地域があるようです。ただここ新潟市平野部では、雪はあまり積もりませんでした。
また、寒さもそれなりに厳しかったのですが、もっと寒い冬を何度も経験しているような気がします。
個人的に真冬や真夏は“強い季節”という印象を抱いています。
その“強い季節”終わろうとしていると感じると、そこにさみしさのような気持ちが含まれているような気がします。
寒い季節や暑い時期、体と心と頭はその寒さや暑さに対して身構えているような感があります。
頭は、寒さに耐える方法や、暑さをしのぐ手立てを自分の意思で考えているのですが、体や心は自然に寒さや暑さに耐えようとしているような気がするのです。
それが、寒さが緩んでくると、寒さに対して構えている体と心と頭が肩すかしをくらうように感じるのです。
冬という存在感の強い季節が終わっていくことを、頭で認識する前に、体と心が感じ取っているような気がします。
そのため、さみしさのようなものを感じるような気がします。
それが、この冬この辺りでは、冬の強さがひかえめだったような気がします。そのため春の訪れをゆるやかに感じているのかもしれません。