昔から、あらゆる物語にロボットが描かれていると思います。
ただ物語に描かれるロボットは、物語だから存在しうるのであって、実現するわけがない、長い間そういう観念があったような気がします。
しかしロボットの開発は、どんどん物語に近づこうとしていると感じることがあります。
今、ロボットに求められてきているのは“自律性”だと聞きます。
つまり、人間が操縦するのではなく、また人間がすべての指示を出すのでもなく、ロボットが自分で判断し自ら行動するということです。
それは、人間が立ち入ることが出来ないような危険な場所での作業などで有効だと考えられます。
その危険な場所が人間との通信が出来ない状況であっても、ロボットが自ら判断して行動できるなら、必要な作業をすることが出来ると思います。
また、事前にプログラムしたことだけをこなすロボットでは、人間と連絡を取り合うことが出来ない環境では、予期せぬ事態に対応できないと思います。
自律的に判断し行動するロボットでしたら、そのような状況でも対処できることがあると思います。
日本では、実際にそのような状況があると思います。
福島第一原発事故では、『日本は高いロボット技術があるんじゃないの? 何かここで使えるようなロボットはないの?』何度もそんな考えが浮かんだものです。
それは今でも変わらないと思います。原発は人間が立ち入ることが出来ない場所を、一瞬で作り出すことがあるといえるかもしれません。
しかも、そんな場所を作りだすのは一瞬でも、人間が立ち入ることが出来ない状況は、非常に長い時間になるといえるかもしれません。
そうなると、自律性をもつロボットは有効だと思います。
人間にとって危険な場所に、戦場があげられると思います。
身だけでなく心にも危険だと思います。
人間が人間の命を奪う場所が戦場だと思います。人間に人間の命を奪う判断をさせるのが戦場だと思います。
『神父の格好をしているが油断は出来ない。銃を隠しもっているかもしれない』
『子供だが油断は出来ない。ここでは子供も銃を持っている』
『女だからといって油断は出来ない。爆弾を抱えているかもしれない』
人間の兵士だったら、神父や子供や女性がほんのわずか不審な動きをしただけで、引き金を引くかもしれません。
一瞬の判断が遅れ、神父にふんしたテロリストが爆弾を爆発させてしまうかもしれません。
それを想定しなければ兵士は務まらないかもしれません。想定出来ない兵士は、それゆえに命を落とすかもしれません。
そしてその想定には、恐怖心がくっついているものだと思います。
“本当に神父かもしれない。でも間違っても構わない。こっちが先に撃つ。そうしなければ身を守れない”
兵士にはそういう意識があるのかもしれません。
ロボット兵士なら、神父が確実にテロリストだと判明するまでは引きがねを引かないように設定することが出来るかもしれません。
もし判断が遅れて神父にふんしたテロリストが爆弾を爆発させたら、ロボットは壊れるでしょうが、修理できるかもしれません。修理が出来ないなら、新しくロボットを作れば済むかもしれません。
ロボットならば、“本当に神父かもしれないが、身を守るために間違っても構わないから先に撃つ”絶対にそれをしない設定にすることが出来るような気がします。
そうなると、ロボット兵士を導入することで、民間人の犠牲者を減らすことが出来るかもしれません。
人間の兵士は不安に駆られて引き金を引くことがあるかもしれません。恐怖に囚われてスイッチを押すかもしれません。怒りにまかせて火をつけるかもしれません。
そして、自らの心を病むかもしれません。
ロボット兵士は、感情に左右されず機械的に状況を分析し、必要だと判断した場合のみ、そうするべきだと判断した人間のみを殺す、そのように設定することが出来るかもしれません。
殺戮する人数を必要最低限にすることが出来るかもしれません。
しかし、それは非常に危険なことだと思います。核兵器より危険だと思います。
“必要最低限の人間を殺す”それは一見すると人道的に見えるかもしれません。しかしだからこそ歯止めが利かなくなると思います。
人間を殺すのがロボットでは、そのロボットを生み出したのが人間だとしても、人間は罪悪感を持ちにくいような気がします。むしろ、市民の犠牲者を減らすことが出来たと誇らしく感じるかもしれません。
そうなるとロボット兵士はどんどん増えていくかもしれません。そして“必要最低限の殺戮”がどんどん行われるかもしれません。
“機械が極めて冷静かつ客観的に判断し、必要最低限の人間を殺す”
人間はそれを際限なく繰りかえすかもしれません。
人間はそれを際限なく繰りかえすかもしれません。
そして、核兵器より多くの人間の命を奪ってしまうかもしれません、
ロボット兵士の本当の恐ろしさは、人命を機械的に処理することかもしれません。
それは人間の心を麻痺させるかもしれないと思えるのです。
人間はその恐ろしさを、小さく見積もり過ぎていると感じるときがあります。