2014年3月25日火曜日

計算機と人工知能


何度も書いていますが、僕は算数が嫌いでした。大抵の場合、算数の授業は苦痛でした。

今、考えてみると、数字それ自体に対して、苦手意識があったような気がします。ただ何事も、やってみなければ『苦手だ』と感じることはないと思います。

“やってみたけど、上手くできなかった”

そういう経験があるからこそ苦手だと感じるのだと思います。

記憶をさかのぼってみると、僕は数字に対してはじめから好ましい印象を抱かなかったような気がします。

“数字とは生まれつき相性が悪かった”

 なんとなくそんな気がするのです。

 

 人は誰でも好き嫌いがあり、得手不得手があると思います。学校の授業でも、好きな教科もあれば、嫌いな教科もあり、それは人それぞれだと思います。

 僕は算数が苦手で嫌いでしたが、国語が大嫌いだったという人もいますし、歴史が苦手だったという人もいます。それは個性というか、生まれつきというか、先天的なものかもしれません。

 そして多くの人は、自分が苦手な教科を好きだという人の話を聞くと、信じられないというか、理解しがたいと感じるように見られます。

 僕自身、算数が好きだとか楽しいとかそういう声を聞くと、信じられないと思うことがあります。

 

いつごろだったのか、どんな内容だったのか、よく覚えていませんが、数式や定理を取り上げたテレビ番組を見たことがあります。

なんとなく、数年前から「数式」とか「定理」などを取り上げたものを、時々目にするようになった感があります。

数式や定理だどと聞くと、僕の内面から拒否反応のようなものが湧きだすと感じることがあります。しかし、それでも見ることがあります。

興味はわかないものの、関心があるというか、何か引かれるものがあるのかもしれません。

数式や定理の内容は理解できないと思いますし、それに打ち込んでいる人がいることも信じられない思いを抱くかもしれませんが、自分とは隔たりのある世界をちょっとのぞいてみたくなるのかもしれません。

 

番組の内容はよく覚えていないのですが、『人間の頭で考えているんだな。コンピューターでやればいいんじゃないのかな』と思った記憶があります。

そして、出演者のなかにも同じように考えた人がいたのだったと思います。

「コンピューターを使わないんですね」

「コンピューターには人間が計算式を与えるんですよ。それを使って計算をするんです。ですから、自ら数式をつくったり、数式を解き明かしたりすることは出来ないのです」

 うろ覚えですので、もしかしたら記憶違いをしているかもしれませんし、大きな勘違いをしているかもしれませんが、そのようなやり取りが交わされたような気がします。

 

 その時「コンピューターは、あくまでも計算機なんだな」という印象を受けました。

 僕は算数が嫌いですし、今でも数字を見ただけでなんとなく構えてしまうというか、心理的に軽い拒否反応があると感じることがあります。

 それにコンピューターに対しても苦手というか、相性が良くないと常日頃から感じています。

 また今回は何も調べずに書いていますので、「コンピューターはあくまでも計算機。ただし非常に高性能」という認識は間違っているのかもしれません。

ただ、定理はあくまで人間の頭で解き明かすしかないと耳にして、そんな気がしたのです。

 

そういえば少しまえに、「人工知能」について取り上げているものを目にしました。

コンピューターに関連した有名な企業が、人工知能に関する企業を買収したというような記事でした。

そのとき人工知能は、コンピューターは違うものだということに気づきました。

これも今回は何も調べずに書いていますので、間違った認識かもしれませんし、大きな勘違いをしているかもしれません。

そんな僕の認識では、“コンピューターは仕事の仕方を人間が指示しなければならないが、人間では出来ないような難しい仕事をこなすもの”というものです。

“人工知能は、仕事のやり方から自分で考えるもので、ただ単に与えられた計算式を使って処理をするだけではないもの”という認識です。

 

 上に書いた記事では、人工知能に人間の神経の繋がりの仕組みを組み込むことが考えられているそうです。専門的なことはわかりませんが、機械が文脈を理解できるようになるかもしれないそうです。

 人間に話すときと同じ言葉使いで、機械と会話することが出来るようになるかもしれません。

また、人間に指示をだすと同じような言葉使いで、機械を動かすことが出来るようになるかもしれません。

 しかも、その仕事について機械が自らもっとも効率的なやり方を考え、状況が変わればそれに合わせてやり方を変え、なにか必要なものがあればそれを求め、不必要なものがあればそれを除することを提案してくるかもしれません。

 また一歩、現実は物語に近づいているのかもしれません。