戦争は感情がおこすものだと思います。
人類は今までに、数え切れないほど戦争をしてきたと思います。
その多くは感情によって始まったと思います。
国と国の利害対立があることは確かだと思います。
しかし利害が対立しているときの手段として武力を用いるのは、多くの場合感情が大きく作用していると思います。
もしかしたら、今まで人類が起こしてきたすべての戦争は、感情によるといってもいいのかもしれません。
それでも人々が抱いている印象は、“国が起こす戦争は子供の喧嘩とは違うのだから、感情に左右されたのではなく、その時なりに冷静な状況分析をしたのだろう”というものだと感じます。
そうかもしれませんが、個人的にそうではないような気がします。このところ、そんな気が強まってきています。
過去の戦争について論じる声にも、感情があふれ出ていると感じることもあるような気がします。
ただその場合、論じている当人は冷静で客観的な視点に基づいていると思っていると感じることがあります。
戦争は感情で起こるため、後年それについて論じる時も感情に左右されるのかもしれません。
ただ戦争を始める人たちも、後年それを論じ人たちも、自分では感情に左右されているという認識はもたないものものかもしれません。
紀元前のころから、戦争は感情によって起こされると感じるときがあります。それは西暦2000年を過ぎた今でも同じように感じます。
大昔から現代に至るまで、国の政治に関わる者が感情に流されて、戦争を始めるのかもしれません。しかし、そのように戦争を始めた人物ほど、自分では冷静に状況を分析しているつもりになるものかもしれません。
そして、感情に流されているのは国の政治に関わる者だけではないような気がします。
報じ手、伝え手、論じ手、そういう人たちの声にも、感情が多く含まれていると感じることがあります。
それが民衆の感情に影響を与えることは、昔から頻繁にあったのではないかという気がします。
現代は、情報伝達技術の進歩によって、誰もが“報じ手”や“伝え手”や“論じ手”になることがあるような気がします。
そして時にそれが大きな動きを起こすことがあるような気がします。大昔から、民衆が大きな動きをすると手が付けられなくなることはあったのだろうと思います。
しかし近年はその傾向が強まるばかりのような気がします。
このところ、報じる声、伝える声、論じる声に含まれる感情の度合いが強まっているような印象があります。
今、大国を非難する声を耳にします。非難されるだけの理由があると思います。非難する声が高まることも、もっともだと感じます。
非難はされるべきだと思いますが、ではこれから半島を含めた国がどのようになるべきか、具体的な意見はあまり耳に入ってこないと感じます。
あくまで個人的に聞こえてくることだけですが、この状況を収めるにはどうすればいいのか、具体的な話は今のところ一つも聞いていないような気がします。
ただ言葉に感情が含まれているような印象があります。怒りや危機感などです。
やはりあくまでも個人的に感じることですが、現状ではどうすればいいのかは難しいため、具体的なこと考えることが出来ず、批判を発するしかないのかもしれません。
批判とは、多くの場合それを発する時に感情が滲み出るものだという気がします。
また、政治家の発言からも、半島がこれから具体的にどのような状態になることが好ましいのか聞かれないような気がします。非難するものの、ではどうすれば今の状況を収めることが出来るのか聞かれないような気がします。
それは難しいことですので考えられないのかもしれません。
政治家は具体的に事態を収める方向性を述べることが出来ないように見られることがあります。
そして、感情がにじみ出るような言葉を発しているという印象を受けることがあります。
大国のリーダーの演説の、他の国を批判する部分については、まるで子供の喧嘩のような印象を受けました。政治家として次元の低い発言だと感じました。
また、国連の場での大国同士の言い争いにも、子供同士の口喧嘩を思い起こされました。
国連という場での話し合いとしては、非常に次元が低いという印象を受けました。
あくまでも個人的な印象ですが、小学3年生くらいの子供たちが言い争っている様子が重なりました。
ただ思い起こすと、そのように国を代表する者同士が低次元の言い争いをすることは、大昔から数え切れないほど行われてきたのではないかと思います。
そして時として、戦争がおこったのではないかと思います。
今の状況をみると、具体的にどうするかという話がないまま、対立を深め続けているような印象があります。
それは政治のやり方として、建設的ではないと思います。