2014年6月9日月曜日

あの人たちなんでわかんないんだろうね

 喧嘩というのは、傍からみていると、『なんで?』と思うことが色々あると感じます。
『なんでこんなことで喧嘩しているの?』
『いったい、いつまでも喧嘩してんの?』
『喧嘩しても、どっちもいいことないじゃん。なんでそれがわかんないの?』
『どっちもどっちに見えるけどね。本人たちはそれがわかんないだろうけどさ』
『ばかなことしてるよな。本人たちにはいえないけど』

 喧嘩には、当事者以外の人の目には、どっちが正しいとはいえないと見えていることがあると思います。
当事者以外ですので、客観的な見方をしているといえるかもしれません。
 どちらが正しいとも言えないので、どちらの味方もしないことがあると思います。
 しかし喧嘩している本人たちは、自分が絶対に正しいと思っていることが多いと思います。
 しかも、自分たちは客観的に見ていると信じて疑わないことがあると思います。

 また、喧嘩にもいろいろあると思います。
どっちが正しいとか、誰が間違っているとか、そんなことに関わらず、『俺がいい目にあうためには、この喧嘩に勝たなきゃならねえんだ』というときもあると思います。
『結局喧嘩は奪い合いだ。どっちが正しいかなんてどうでもいい。俺が取るんだ』

それにしても喧嘩するかには、なにか大義が必要な場合が多いと思います。
『正しいのはこっちだ。向こうは間違っている』
 詭弁といえるかもしれません。当事者以外の人たちは『そうかなあ。どっちもどっちだろ』と見えているときもあるような気がします。
『奪い合いだ。俺が取るんだ。それは俺たちが正しいからだ。向こうが間違っているんだ』
 詭弁と知りつつ、得るためにそれを振りかざす人がいると思います。

『そうだ。向こうが悪いんだ。向こうが悪者だ。俺たちは正義のために戦うんだ。』
 詭弁に乗せられている人もいるような気がします。
『俺は冷静だ。常に客観的に見ている。ちゃんと向こう側の視点でも見ている。そのうえでこっちが正しいと言っているんだ。それは絶対に間違いない。向こうが全面的に悪いんだ』
 そう信じて疑わない人も多いと見られます。

『でも本当に向こうが全面的に悪いのなら、もっとこっちに味方がいてもおかしくないじゃないの?』
 人間は自分が思っているほど客観的でもなければ、冷静でもないことが多いと思います。
 自分は冷静で客観的だという人ほど、そうではない場合も少なくないと思います。

『こっちが正しいんだ。でもみんな向こうと商売で関わっているから、それがいえないだけなんだ』
 確かにそういう側面はあると思います。その通りだといえる場合もあると思います。
『そりゃそうかもしれないけど、あんただって人のこと言えないだろ。正しいってだけじゃなく、自分が得したいから喧嘩しているんだろうに』
『損得で動いてんのに、自分は正しい。あいつらは悪いって言いふらしてんだろ』
 
人間社会は利害関係によって動いている側面があるのは確かだと思います。
そしてそれが複雑になっていることも確かだと思います。
かつて世界は大きく二つに分かれていました。だから対立の構図をつくりやすかったような気がします。
しかし現在は複雑に関係しあっていますので、対立する構図は作れないと思います。
しかしそれでも対立しないと気が済まない人がいるように見られます。
対立する構図にならないのに、そうしようとしているのですから無理があると感じます。
 
喧嘩にならない社会で、喧嘩をしても誰も得しないと思います。
 “喧嘩にならない社会”
それは“勝ったほうがすべてを得られるわけでない社会”であり、“いくら喧嘩をしても決着がつかない社会”であり“勝者のいない社会”であるような気がします。
『この喧嘩、多分ずっと決着つかないよ。だったら、やめればいいのにね。だってずっと喧嘩してなんになるの? なにかいいことあるの?』
 傍からみればそう思えるのに、当人たちにはそれがわからないことが多いと感じます。
『こっちが絶対に正しい。だから喧嘩を続けるのだ』

『喧嘩していても、なんにもなんないじゃん。一緒に役立てて、お互いが儲かるようにすればいいんじゃないの。どうせ決着なんてつかないんだからさ。丸取りなんて、この先何十年も出来るわけないよ。それなのに喧嘩しているから、丸取りどころか何一つ得られていないじゃん。でもそんなこと言えないだよね。だってネットで叩かれそうだもん。下手すりゃ嫌がらせとかされちゃうかもしれないし』

自分が絶対に正しいと信じて疑わない人もいるものです。強硬的志向が強い人もいるものです。
 政治家の中には、決客のつかない事態であるにも関わらず、そういう認識が出来ない強硬的志向の人がいるものだと思います。
また国民の間にも、自己愛と強硬的志向が強まる傾向があると感じます。それは世界的な傾向だと思います。

 その強硬的志向に押されて、状況を難しくしている政治家が今の世界には何人もいるように見えます。