2014年6月22日日曜日

おこりかた


 時々、“怒り方”について、指南するような内容の書き物を目にすることがあります。

 またテレビ番組などで、歴史上の人物に照らして、“怒り方”や“叱り方”などを説いているものもあるような気がします。

 本は小説しか読まないのですが、インターネットで話題の一つとして取り上げられているものを目にしたような気がします。

また歴史を扱うテレビ番組などで、上に立つ者の心得として、“怒り方”を取り上げているものを見たような気がします。

 

 そのようにして“怒り方”が取り上げられるのは、それが難しいことだからだと感じます。

そして“怒り方”の難しさは、昔よりも度合いが増しているような気がします。

 以前は上下関係が厳格で、上の立場の人から怒れるときは、無条件で怒られるしかなかったことが多かったような気がします。

 理不尽であろうと、不条理であろうと、上に立つ人から怒られたら、黙って怒られるしかないということです。

 今でもそのような状況にあっている人もいると思います。社会が移ろっても、人の世は多様なものです。

 

しかし現在は、正当な理由がなく怒ることや、人格を否定するような罵詈雑言を浴びせることは、社会的にも法的にも許されなくなってきたと思います。

 おこるにたる正当な理由があったとしても、威圧的に大声で罵倒するのは“良くないこと”だと見られるようになったと感じます。

 ましてや出自や人間性に関することを罵ったのでは、社会的、法的になんらかの罰を受けることもあり得ると思います。

 そして何よりも、理不尽に怒られたのでは人材は育たない、そんな意識が社会の中に広がってきたと感じます。

 

そして効果的な“怒り方”を考えるようになってきた気がします。

 怒っている理由を相手に理解させようと、細かく説明するような“怒り方”をすることがあると思います。

 しかし怒れた相手は、くどい説教だと感じ、反省せず、改善もされないかもしれません。

 

なぜ怒られているのか自分で考えさせ、間違いに気づかせようと、何も説明せずに突き放すような“怒り方”もあると思います。

 しかし相手は、怒られた理由を理解できず、反省せず、改善もされないかもしれません。

 

 罵るのではないが、正当な理由を強い語気で叱責する“怒り方”もあると思います。

 相手は反省するものの、落ち込んでしまったり、萎縮して力を発揮できなくなったり、高い資質を持ちながら開花させられずに去っていったりするかもしれません。

 

効果的な“おこり方”や“叱り方”は、人それぞれであり、状況によりって様々だと思います。つまり正解はないということです。

考えれば考えるほど、迷ったり悩んだりするものだと思います。

しかも怒っているときは多くの場合、感情が高ぶっているものです。

効果的な“怒り方”を冷静に考えることなど出来ない心理状態になっていることも多いと思います。

 

いかりの感情は表に出すことで高ぶることがあるものだと思います。

おこったり叱ったりしているうちに、次第にいかりが高ぶってきて、声が大きくなり口調が荒くなっていくことがあると思います。

それでも頭の片隅には、感情的に怒りをぶつけるのではなく、効果的な“怒り方”をするべきだという考えがあるかもしれません。

しかし、いかりの感情が高ぶっているときは、考えて怒ることなど出来ないことが多いと思います。

 

 また日常生活の中では、上下の人間関係ではなく、同じ立場の人をおこったり叱責したりすることもあると思います。

同期で同じ役職の同僚や、同じ学校に通う同じ年の友達に対して、注意したり、怒ったりすることもあると思います。

そのような場合も、人それぞれであり状況は様々だと思います。しかし下の立場の人をおこるよりも難しいことも少なくないと感じます。

 

上の立場の人から怒られるのは、“社会とはそういうものだ”と認識している人もいると思います。

上から怒られるのは社会では当たり前のことであり、仕方ないことだと受け入れている人もいるような気がします。それは特に自覚していない場合もあると感じます。

しかし、同じ役職の同期の同僚や、同じクラスの友達から怒ったり叱ったりしたのでは、素直に聴くことも、仕方ないと受け入れることも出来ず、喧嘩になってしまうかもしれません。

 

人はおこられると無条件に反撥する心理があると感じます。

頭では怒られるのは尤もだと理解していて、怒った人に反感をもつべきではないとわかっていても、心のなかには反発し、自己弁護していることがあると思います。

反省し、落ち込んでいても、心のどこかに怒った人に対する批判や、怒った人を嫌う気持ちがあるような気がします。

それは自覚できないほど小さい場合もあれば、自覚しているからこそ目をそらしている場合もあるような気がします。