2014年6月21日土曜日

昔話からアニメまで

 映画、小説、漫画など、世の中には様々な媒体で描かれた物語があると思います。
遺跡などを目にすると、人間は有史以前から物語性があるものを作っていたと感じることがあります。
物語性は空想によって作られるものだと思います。しかし空想するだけでは、形に残らないものです。

ヒトがいつごろから物語を空想するようになったのか、それを解明することは非常に難しいと思います。もしかしたら解き明かされることなどないかもしれません。
ひとりひとりの空想によって物語が生み出されるのなら、人類は膨大な物語を作ってきたといえるような気がします。
しかしその多くは、目に見える形で表されることはなく、耳に聞こえるように語られることもなかったのだと思います。
つまり人間が生み出した物語の多くは、表現されないまま消えていったと思うのです。そして今現在、空想されている数々の物語もそうだと思います。

現代は、映画、小説、漫画、アニメ、ドラマなど媒体が多様化し、それを発信する技術が進化し続けていると思います。
それらによって、昔にくらべると遙かに多くの物語が、なんらかの形で表現されているような気がします。
そしてそれによって、物語に触れる機会が、昔より格段に増えているのだろうと思えます。

物語は無数にあるものの、その中には様式がみられることがあります。マンガやアニメでいえば、遅刻しそうになってトーストをくわえて走っている女子高生が描かれることがあります。
近年では、物語の導入部で空から美少女が降ってくることも、アニメやマンガでは一つ様式といえるかもしれません。
どちらも現実で目にすることは極めて少ない光景ですが、マンガやアニメでは“よくあること”だと感じます。

それらは比較的新しい様式だと感じます。
物語には、もっとずっと昔から“よくある”展開や表現や設定があると思います。
二つの家が反目しあっている。それも様式のひとつだと感じます。
隣家や向かいと仲が悪いとか、二つの旧家が何世代に渡って不仲であるとか、二軒の老舗が代々商売がたきである、などです。
そのような設定や背景は、昔話や民話、童話から、現代のアニメやマンガにまで描かれているような気がします。まさに“よくあること”といえるかもしれません。
そしてそのようなことは、現実社会でもよくあることだと感じます。
近所の家と仲が悪いとか、親戚の家と不仲だとか、町内にある二軒の同業者がいがみ合っているなどいうことは、昔話でも、名画でも、最近のアニメでも、現実社会でも、あること思うのです。

現実社会にある対立の場合、当事者でない立場の者がみると、無益な争いだと感じることが少なくないような気がします。
傍からみると愚かしい対立に感じることもあると思います。お互いにもっと建設的に物事が見られないものかと思われていることもあると感じます。迷惑だと感じることもあると思います。お互いが損していると見えることもあると思います。
しかし、いがみ合っている家の当事者には、それがまったくわかっていないと見えることがあると思います。
「そりゃ気持はわからなくはないけどさあ、もう何十年も前のことだぜ。いったいいつまでもめてりゃ気が済むんだよ」
「相手を叩くネタになるとみりゃ、何十年前のことだろうが蒸し返すんだろ」
「昔のことばかり見てねえで、先のことを見ようと思わねえのかねえ」
「そりゃ無理だな。どこの家にも聞き分けのねえやつがいる。そういうやつは大抵いばっているもんだ。それに暴れるのが好きなやつもいるからな」
「でもさ、どっちの家にも無駄なことやっているって、わかっているやつもいるだろ」
「いるけど、威張っているやつや、暴れるのが好きなやつは声がでかいんだ。それにそいつらが家の中で暴れられたら面倒だ」
「まあそれもそうなんだろうな」
「人間ってのは、俺が正しいんだ。俺は被害者だ。あいつが悪いんだ。向こうが先にかかってきたんだ。そう思いこむもんだからなあ」
「代々そういう風に教え込んでいる家もあるっていうな」
「それに対抗して、これからは我が家でもそういう風に教え込んでいくっつう家もあるんだろ」
「それじゃあ、俺たちがどんなにいい加減にしてくれっていっても聞かねえだろうな」
「ああ。どうしようもねえ。俺たちはただあきれているしかないのさ」
「それにしても空き地にしとくくらいなら、共同で有効活用すりゃいいのにさ。ああしておいても一円も入ってこねえ。もったいないこった」
「いがみ合って、怒りあっているからな。感情が抑えられんのだろ。面子なんてのもあるだろうし。それに共同で活用したらしたで、どうせ取り分でもめるだろ。だったら放っておいたほうがいいんじゃねえの」
「ほんとにもったいねえな。本人たちはわかってないだろうけどさ」

「ああ、見ているくせにわかってねえ。だがまあ、そんなもんだ」