2014年7月29日火曜日

世界の警察


“世界の警察”など、はじめから存在していなかったと思います。

“世界の警察”を自認していた国はあったと思います。他の国も、その役割をある程度認めていたと思います。

 しかし実際は、“警察”ではなく、“世界の番長”だったと思います。

 

 その“世界の番長”も、今では疲れがたまっているように見られます。

 今まで散々、力を振りかざし、力を振るってきたのですから無理もないと感じます。

 ただそれ以前に、今の国際社会では“番長”が存在しにくくなっていると思います。

 

 現在は、先進国が成熟期にあり、新興国が成長期にあると感じます。それでは、ひとつかふたつの大国が突出する状況にはなりにくいと感じます。

また今の世界は、広く多様に繋がりあっているように見えます。それは利害が複雑に繋がっているといえると思います。

 利害が広く多様に繋がっているため、世界を二つにわけるような対立の構図にはなりにくいと思います。

 

 そして、人間の心理が変わってきたと感じます。自我や権益を守ることに固執するようになったと感じます。

 利益や権利を守ろうという意識が強くなり、決して妥協や譲歩をしない、そのような心理傾向が強まっていると感じるのです。

 そして、自我や権益を守るためには、他者に勝たなければならないという意識が強まっていると感じます。

 他者に勝つには、強く叩かなければならないという意識が強まっていると感じます。

 自己正当性を強く訴え、対立するものを強く攻撃するべきだと、強く考えるようになったと感じます。

 

 人間がそのような心理を強めていることが、国際社会にも反映していると感じます。

 国民の強硬志向が強まっているのですから、強硬志向の強い人物が政治家になることが増えているように見えます。

 強固志向の強い政治家が、国民の強硬論に押され、国際社会においても、強い態度を示すことが増えていると思います。

 どの国も「一歩たりとも引き下がることはない」と主張するばかりになっていると感じます。

 

 近年、国連は対立の場になっていると感じることがあります。

 世界には様々な対立があるのですから、国が集まって話し合うことが必要だと思います。国連はその場でもあると思います。

 しかし国連では、各国が決して譲らない主張をしているばかりに見えることがあります。

 そのため近年の国連は、争いを解決する場ではなく、武力のぶつけ合いを、言葉のぶつけ合いに変える場に見えることがあります。

 

“話し合いで争いを解決するとは、妥協点を見出すことである”

争っている双方が、妥協する意思をもっていなければならないと思います。

 しかし現代社会は、自分が絶対的に正しく、相手が絶対的に悪いのだから、一歩たりとも妥協してはならないという姿勢で、話し合っているものが多いと見られます。

 それでは話し合いで解決するはずはないと思います。

 現代の国際社会において、国連は対立を解決する場としての機能しなくなりつつあると感じます。

 

そして今の国際社会は、争いを終わらせることが難しくなっていると思います。

争いが長引くことで、状況が複雑になり、混乱を深めることが増えていると感じます。

血が流れつづけるばかりの地域があるような気がします。

 

そうなると必要なのは、ルールとそれに基づいた秩序つくりだと思います。

国家間や地域間の争いは、国際的な司法において裁定する仕組みが必要だと思います。

主張がぶつかるときは、武力で訴えるのではなく、法によって決するべきだと思います。

しかし現状の国際社会では、その仕組みが実質的に機能していない場合が多いと感じます。

そうなると、仕組みを変える必要があると思います。

 

 また、戦争を始めないルールや、武力衝突を終わらせるルールが必要だと思います。そうなると、武力行使に関するルールも必然的に作られると思います。

 そのルールに基づいて、戦争を起こさないようにし、紛争や内戦を終わらせるようにするべきだと思います。

 

何も調べないで書いていますので、もしかしたら関連する国際法があるのかもしれませんが、それに基づいて紛争が終わったことがあっただろうかと考えると、記憶からは何も引き出せません。仮にルールがあっても、実質的に機能していないように見えます。

 

ただ、ルールによって秩序を守るには、ルールに基づいた権限を有する機関が必要だと思います。

それは国の利害関係から、完全に独立していなければならないと思います。

権限を持つからには、特定の国に有利になってはならないと思います。

 

そうなると、ルールを定めることも、それに基く権限を有する機関を作ることも、非常に難しいと思います。

だからこそ、早く作り始めなければならないと思います。

これからの国際社会に必要なのは、“世界の番長”でも自称“世界の警察”でもなく、真の“世界の警察”だと思います。