過去の戦争では、軍事力を市民に向けることがあったと思います。
敵の軍を狙って攻撃したものの、市民にも被害が及んだのではなく、はじめから軍隊が民間人に攻撃したことがあったと思います。
多くの民間人の命を奪うことで、相手国に打撃を与える意図があったと思います。
つまり多くの民間人を殺戮することが目的だったと感じます。
そうでもしなければ、相手が負けを認めようとしないだろうという考えがあったといわれています。
もはや戦況が覆ることなどない、つまりすでに実質的に勝敗は決しているとみられる状況であるにも関わらず、相手が敗北を認めなければ、さらに多くの血が流れるだけで、今降伏すれば失われることのない多くの命が奪われることになると予想されるのだから、そうなるよりも大量の民間人を殺りくする兵器を使ってみせることで、この時点で本当に観念させたほうが、最終的に犠牲者が少なくて済むだろうという考えだと思います。
その戦争の後、軍が市民を狙って攻撃することは非人道的だという認識が世界に広がったと感じます。
それは過去の戦争の反省といえるかもしれません。
また兵器があまりにも協力になり、その数があまりにも増えたため、それが使われたことを予測すると、あまりにも悲惨な状況が浮かんでくるからだと思います。
『兵士は民に銃を向けてはならない』
それが戦における決まり事でなければならない。そんな意識が、広く世界中にあると感じます。
しかしそれでも、戦争となれば多くの市民に犠牲が出ていると見られます。
軍が市民を狙って攻撃しているわけでなくても、民間人が命を奪われていることが後を絶たないと感じます。
むしろその傾向は強まったように見られます。
テロリストの台頭が一因だと思います。
民間人の犠牲者が出ると国際的に非難されるなら、民間人を盾にすれば攻撃されにくいという考えが浮かぶのだと思います。
また全ての兵器は、須らく破壊力を持っているものだと思います。
その破壊力は、軍隊だけ、あるいはテロリストだけを叩くだけでは済まないこともあると思います。
『民間人の犠牲は、どうしも出てしまうものだ』
それが現実かもしれません。今の世界で軍事力を行使すれば、民間人の犠牲者を一人も出さないことは極めて難しいと思います。
『だから軍事力を行使してはならない。別の手段を用いて問題を解決しなければならない』
そういう意識が、世界中に広まれば戦争はなくなるかもしれません。
しかし近年、そうではない方向に向かいそうな気配を感じます。
『民間人の犠牲はどうしても出てしまうものだ。仕方ないのだ。仕方ないことは受け入れるべきなのだ。たとえ市民に犠牲がでたとしても、軍事力で叩かなければならないのだ』
それは過去の戦争の反省から高まった倫理観を、かなぐり捨てる考えかたかもしれません。
そしてそんな意識は、誰もが自覚しないまま、蔓延することがあると思います。
世界に漂っている雰囲気が、変わっていく気配を感じます。
そして気づいたときには、人々の意識が大きく変わっているかもしれません。
『戦争となれば市民が殺されるのは当たり前だ。徹底的に叩き潰すとは、市民を含めてのことだ。軍だけを徹底的に叩き潰すことなど出来ないのだ。民間人を大量に殺さなければ、戦争は終わらない。きれいごとを並べて、そこから目を背けていたのでは勝てない。現実を直視するべきだ。敵の市民を殺すべきだ。そうしなければ戦争には勝てないのだ』
倫理観の崩壊は、気づかないまま進行しているものだと思います。
軍は民間人を狙って攻撃するかもしれません。
民間人に対して化学兵器を使った攻撃を行った国があると聞きます。
それは許されるべきではなく、国際的に糾弾されるべきだと思います。擁護する余地はないと思います。
ただそれは、独裁者を殺して片づけてしまえばいいということではないと思います。
力による制裁ではなく、法による処罰が必要だと思います。
そのためには、戦争が終わらなければならないと思います。
しかし状況は複雑になり、争いは深まり、広がるばかりに見られます。
また、ロケット弾を使った攻撃が行われている地域で、もしそれが迎撃されなければ、多くの民間人に犠牲がでると思います。ロケット弾のなかには、市民を狙った攻撃も少なくないのかもしれません。
また、空爆では多くの民間人が犠牲になっていると聞きます。軍や政治に与える打撃より、市民の犠牲のほうが、遙かに大きいのかもしれません。
しかし対立は根深く、争いは深まるばかりに見られます。
当面は手の施しようがないと感じます。仲介によって争いを収めるには、当事者に争いを収めたいという意思や、仲介を求める意識が必要だと思います。
倫理観の崩壊は、自覚がないまま広がっていくものだと思います。
食い止めるには、食い止めようと意識しなければならないと思います。
意識して倫理観を高めようとしなければならないということです。
そんな必要はないという考えが浮かぶのは、それ自体、倫理観の崩壊に向かっている表れかもしれません。