社会は常に変わり続けているような気がします。
しかし変化のなかにいると、変わっていることを感じにくいものだと思います。
ただそれ以前に、人間が集まって社会を作っているのですから、変わっているのは“人間”だといえるかもしれません。
近年、社会に変化を感じます。しかしそれは、多くの人の人間性が変わってきているといったほうがいいのかもしれません。
その変化は、自己愛が強くなっているということです。
ただ、自己愛の心理は複雑になっていると感じます。
現代における自己に対する執着心は、社会性にも密接に関係していると思います。
“他者と深く関わらないことで自我を守ろうとしている。しかしそれでいながら精神面で他者への依存を強めている。
自分を守るためには、他者と繋がっていなければならないとわかっているから。しかし他者とのつがなりが、自分を苦しめることがあることもまたわかっている“
複雑に心理が動きながら、自己愛を強めていると感じます。その自覚がない場合も多いと思います。
自分を守ろうとする心理は、自分は正当だという意識や、自分は被害者だという認識を強めることが多いと思います。
それらは、他者に対する非難や攻撃性につながっていると感じます。
他者に対する強硬性を強めることにもなっているような気がするのです。自分を守るには、悪者は徹底的にやっつけなければならない。そんな観念が強まっていると感じます。
他者に対する攻撃性を抑制したり制御したりすることが出来なくなっていると感じます。
『少し痛めつけてやれ』そんな意識はなく、『徹底的に叩き潰してやれ』という意思しか湧かなくなっていると感じます。
まして『折り合いをつけよう』などと考えられなくなっていると感じます。
『こっちが正しいんだ。向こうが悪いんだ。こっちは被害者なんだ。なんで折り合いをつけなきゃならないんだ。向こうが悪者なんだから、やっつければいいじゃないか。そうするべきじゃないか。手加減なんて一切せずに完膚なきまでに叩き潰してしまうべきだろうが』
一人一人の意識がそのようになっていると感じます。そんな人々が集まって集団や社会を作っているのだと思います。
いじめや喧嘩のような事柄から、宗教対立、民族対立、国家間の対立、などにおいて、上に書いた心理が少なからぬ影響を及ぼしているように見えます。
それは、大衆の危険性が高まっているといえるかもしれません。
自己正当性や被害者意識、他者に対する攻撃性などの心理は、大勢が集まることで増幅しやすいと思います。
情報技術が発達している現代では、インターネットのなかで大衆をつくることが出来ると思います。
そんな大衆は、危険度が増していることを自覚しにくいものだと思います。
自己正当性や被害者意識を強めた人間が集まっていると、自己批判は働きにくいものだと思います。
自己正当性や被害者意識の強まりは、情報技術の発展が理由の一つだと思います。
情報技術は、時間や距離に関わらず、いつでもどこでも人とつながる仕組みを、社会に組み込んだといえるかもしれません。
多くの人が繋がっているということは、そこからはじき出された者や、そこに加わらない者は、多くの人から叩かれるかもしれないと思います。
一人が大勢から叩かれるのですから、受けるダメージは相当に大きくなると思います。
そうなると、繋がっていることで自分を守ろうとする意識が強まるような気がします。
繋がることに執着し、また“自分を守る”ことにも執着するようになったと感じることがあります。
政治家は昔から大衆に媚びるものだと思います。多かれ少なかれ、そうしなければ政治家にはなれないと思います。
また、大衆の危険度が高まるほど、政治家は媚びなければならなくなると思います。
危険度が増している大衆が、自分に向かってこられてはたまらない、政治家はそう考えるものだと思います。
しかし危険性を高めている大衆に、政治家が媚びるということは、その国にとっても、世界全体にとっても“よくない”ことになる可能性が高いと思います。
まして政治家が支持率に媚びて大衆を炊きつけることは、その政治家自身の首をしめるだけでなく、その国を追い込むことがあると思います。
ただ大衆は“よいこと”を訴えていると信じているものだと思います。
それにしても、数年前に中東各地で起こった民主化運動は、今のあの地域の混乱に繋がっていると思います。その混乱は今後さらに深まるかもしれません。
しかし外から下手に手を出すと、状況は悪くなるばかりだと感じます。一瞬で最悪な状況になる可能性もあると感じます。
今、支持率の高い政治家が、後世に高く評価されるとは限らないと思います。
歴史上、高く評価されている人物のなかには、生前は大衆から支持されていなかった人も少なくないと思います。