“戦闘で、民間人を犠牲にしてはならない”
人はまだ、その倫理観をなくしていないと思います。
戦闘行為によって民間人に犠牲者が出ると、国際的に非難されるからです。
しかしそうなると、それを利用する者がいるように見えます。
相手に非難が向けられるよう、民間人が犠牲になるように仕向けるものがいると思います。
その思惑通り、相手に対する批判が強まると、これからも同じことが行われると思います。
しかも、次第に犠牲が大きくなっていくと思います。
民間人の犠牲が悲惨であるほど、相手に対する批判が強まるからです。
大人よりも子供が犠牲になったほうが、相手に対する批判は強まると思います。
犠牲になる子供の人数が多いほうが、相手に対する批判は強まると思います。
犠牲になる子供が幼いと、相手に対する批判は強まると思います。
いかにして悲惨な状況を作り出すか、武装勢力はそう考え、味方の民間人が犠牲になるように謀るようになると思います。
国際社会は、そんな思惑に“はまらない”ようにしなければならないと思います。マスコミが思惑に“はまる”ほど、この先、悲惨な状況が強まっていく危険性があると思います。
あの地域で武力衝突が起きる理由が、完全解決することなどないと感じることがあります。それほど根が深く、難しい問題だと思います。
また近年、中東地域の不安定さが強まっていると感じます。近年各地で起こった民主化運動は、現在の混乱の要因の一つだと思います。
中東はずっと前から、根が深く難しい問題を抱えていた地域だと思います。安易な発想による民主化運動で理想を実現することなど、端から難しい地域だったと思います。しかし、マスメディアも含めて、多くの人にその認識がなかったと思います。
状況は複雑になり、手の施しようがなくなったと感じます。
ただ過去を振り返ってみると、離れた国が関わったからといって、必ずしも状況がよくなったとは言えないような気がします。
視点の置き方にもよると思いますが、よそ者がちょっかいを出せば出すほど、状況が悪くなったと感じることもあります。
“何とかしなければならない、しかしどうしようもない”
今の世界には、そんな地域があると思います。
「世界の警察」
数年前から時々見聞きする言葉です。
今まで、大国がその役割を担っていたという趣旨の言葉を耳にすることがあります。
そして今、大国はその役割から降りたという趣旨の言葉を目にすることがあります。
それらの言葉は、大国の中から発せられることもありますし、他の国の中から聞こえることもあります。
“大国は強大な軍事力をもち、状況によってはそれを行使する。それによって世界の秩序が守られてきた”
自他ともにそれを認めていて、それを「世界の警察」という言葉で表現したのだと思います。ただ、実質的に警察の役割をしていたわけではないと思います。
自国の利益に関わるからこそ、強大な軍を動かしていたのだと思います。
それによって、世界の秩序が守られるように見えることがあったのだと思います。
強いものが威張っていると、他のものは下手なことは出来ないと思います。
強いものが「いざというときは、ためらわずに力を使うぞ」と言うと、他のものはその言葉を無視することは難しいと思います。
そしてその言葉通り、強いものが力を振るうこともあったと思います。
しかしそれは“警察”のやることではないと思います。
それよりも“番長”や“ガキ大将”のやり方だという印象があります。
そういえば、ここしばらく「番長」や「ガキ大将」という言葉を見聞きしていないような気がします。
社会が変わったからかもしれません。
今の社会は、番長やガキ大将が存在しにくい構造になっていると感じます。
強い一人が統率するという構図になりにくいと思うのです。
“誰もが自分の権利を強く訴えるようになり、妥協や譲歩しなくなり、対立するものに強硬的な志向を強める傾向がある”
そのため、一人の強い人物に従うことなど少なくなったと感じます。
また、一人が威張ること、それ自体に反感が強まる傾向があるような気がします。
番長やガキ大将が存在にしくいのは、国際社会でもいえるような気がします。
先進国であれ、新興国であれ、強い軍事力をもった国が、世界に目を光らせることで、秩序が守られる。そうなりにくいと思います。
先進国の大国は、今まで番長をやることで、疲弊した感があります。番長の力は、かつてに比べて随分と弱まったということです。
それは“番長”であるがゆえのおごりや、過剰な自負心によるところもあると思います。
ただ、社会が変わっていく過程で、番長の力を削いだという見方も出来ると思います。
今の世界に“番長”が君臨することは難しいと思います。
今の世界に“番長”は必要ではないと思います。
真の“世界の警察”が必要だと思います。