2014年8月12日火曜日

とにかく否定する人、とにかく肯定する人

 日本人は褒められたり、讃えられたりすると、“さらに高めよう”とか、“続けていこう”という意識を持つ傾向が強いと思います。
「治安がいい」とか、「ごみを拾う」などと称賛されると、それを続けていきたくなる心理があると感じます。
 
ただその心理には“外づら”だけはいいという一面を含んでいると思います。
外も内も悪いよりはいいと思いますが、“内づら”もよくすることが出来れば、日本人はさらに世界から称賛されると思います。
“内づら”もよくするということは、他人の目につかないからといって、道徳心を捨てないということだと思います。
 また、大勢の人がやっているからといって、不道徳な行いをしないということだと思います。

 ところで少し前にインターネットで読んだのですが、人間は否定的な意見のほうが強く記憶に残るそうです。対して肯定的な意見は忘れやすいと書かれていました。
 自分が発信した意見や、創作した事物に対して、批判や否定する他者の声は、様々な感情を呼び起こすようです。それは脳の広い範囲が使われているとのことです。
 それによって、“よかったこと”よりも、“嫌だったこと”のほうが、思い出しやすいそうです。

 個人的な印象では、日本人は褒められたことや、讃えられたことを、長く覚えていると感じます。そして時々思い起こすような気がします。
 日本人は褒められることが好きで、それはとても心地いいため、記憶に残りやすく、またそれを引き出すこともそう稀ではないと感じるのです。

 ただ、日本人が“嫌だったこと”を忘れやすいかというと、決してそうではないような気がします。
“嫌だったこと”は、長い間記憶に居すわり、また呼び起こされることも多いと思います。殊に“頭にきたこと”は、反芻されやすい記憶だと思います。
 そして怒りを帯びた記憶は反芻するたびに増幅し、腹立たしさを強めて、また記憶に収められると感じます。
 そのため記憶はさらに強く頭に刻まれることになるので、長い間忘れられず、また引き出されやすくなると感じます。 
そして再びその記憶を呼び起こすと、また怒りを増幅し、それを繰り返すような気がします。

同じ事柄について、褒める声と、けなす声の両方を耳にすることもあると思います。褒める意見がある一方で、批判する声があると、後者のほうが強く印象に残るような気がします。
そしてそれに対して、反感をいだきやすいような気がします。
批判に反撥し、ときに怒りや嫌悪感をもつこともあると思います。

インターネットの普及は、そのような心理的傾向を助長させたと感じます。
膨大な情報が飛び交うことで、怒りや嫌悪感に、歯止めがかけにくくなったような気がするのです。
人は自分が誰なのか特定できない状況では、発言に責任を感じないものだと思います。
論理的ではない批判も、事実に基づいていない中傷も、感情的な誹謗も、自分が発したとわからなければ、抵抗を感じることなく放つ人が少なくないと思います。

そして、言葉で他者に痛手を与えることに、一種の“よろこび”や“達成感”のようなものを得る人もいると見られます。
俗に言う“炎上”をさせる者には、そのような心理が、多少なりとも関わっているような気がします。

ただ世の中には、“何事も否定的な目で見る人”がいるそうです。
また、“何事も肯定的な目で見る人”もいるそうです。
上に書いたインターネットの記事に書かれていたのですが、心理学者による実験でそれが確認されたとあります。
 この記事ではあまり詳しいことはわかりませんが、すべての人間がどちらかに二分されるというわけではないようです。
被験者のなかに“とにかく何でも嫌う人たち”と、“とにかく何でも好きになる人たち”がいたようです。

 言われて見えれば、思い当たるふしがあると感じます。
 善し悪しというのではないのですが、何を聞いても“まず否定することから始まる人”はいるような気がします。
 また、何を聞いても“まず受け入れることから始める人”もいるように感じます。
 どちらも、その気質が先入観を生みやすいと思います。気質自体が先入観そのものと、いえるかもしれません。

 その気質が先天的なものなのか、後天的に作られたのか、記事には書かれていません。
 個人的な考えでは、先天的な人間性の一つではあるものの、後天的に変化することも多いのではないかと感じます。
 自分自身を振り返ってみると、“何事もまず額面通りに受け入れる傾向がつよい時期”と“何事もまず疑ってかかる傾向が強い時期”があったような気がします。
 
 それにしても、人間は否定されるほうが記憶に残りやすく、また否定されるほうが色々な感情を掻き立てられるとすれば、“とにかく何でも否定する人”は、自覚しないまま他者に痛手を与えていることもあると思います。
 その痛手は、思いのほか大きいこともあると思います。インターネットの普及は、痛みを広げ、深くする作用が強いと感じます。
 そんななか、痛みを与えると自覚し、批判する人もいると思います。

 大きな痛みを与えることを狙って、否定する人もいると思います。