2014年8月26日火曜日

怒りに支配された世界

 国が戦争を始める時は、多くの国民がそれを支持しているものだと思います。
 民主的な政治体制の国では、大多数の国民が反対したら、政治家が戦争を始めることは難しいと思います。
戦争に反対する声が上がりデモが行われたとしても、「大多数の国民が反対している」といえるほどではなく、戦争を始めることを賛成している国民も大勢いる場合、政治家は戦争を始められるのだと思います。
ただその場合、反対する国民が少なくないことも確かだと思います。

 戦争が始まるときは、感情が大きく作用していると感じます。
 戦争を始めるのは、国にとって重大な決断だと思います。
『国にとっての一大事を決めたのだから、よくよく考えたうえでのことだろう』
“そうあるべきだ”という観念があるため、“そうなのだろう”という印象を抱く人もいるかもしれません。
 しかし、実情はそうではない場合が多いと感じます。

ただ戦争を始める決定に関わった人の中には、『国際情勢や国の損得を分析し、冷静な思考による意見を集めて決断した』と思い込んでいる者がいるかもしれません。
しかしそれは思い込みであって、本当は“戦争をはじめたい”という気持ちに引かれたのかもしれません。
その気持ちは、怒りの感情が呼び起こすことがあるような気がします。

人間の行動は感情に左右されることが多いと思います。
人間の感情はとても複雑なものだと思います。
ただその中でも、“怒り”はとても強い感情だと思います。
“怒り”は、端から強い感情であるだけでなく、さらに高ぶり易いものだと思います。
“怒り”は、高ぶり易い感情であり、静まりにくいものだと思います。
元々強い感情で、高ぶりやすく、静まりにくい、そうなると人間の行動はその感情に影響されやすいと思います。

戦争を始める政治家や、それを勧める者は、少なからず怒りの感情に流されていることがあると思います。
また戦争を始めるべきだという大衆は、怒りの感情に支配されていると感じることがあります。
そして近年、怒りが人間の行動を支配する傾向が、世界的に強まっているような気がします。
世界各地で武力のぶつかりあいが始まり、それは激しくなるばかりに見られます。
国の中枢にいる人物も、大衆も、怒りに支配されているからかもしれません。
しかし、ほとんどの人が自覚していないかもしれません。

 それにしても、『国にとっての一大事を決めたのだから、よくよく考えたうえでのことだろう』という観念を持つ人ばかりではなく、自分の頭で考えて戦争に反対する国民も、決して少なくないと思います。
 その声を拾い上げなければ、政治家は政治家である資格はないような気がします。
 国民の声を議論の場に上げなければ、国民の代表者の資格がないと思うのです。
 国民は選挙で当選した人間に、すべてお任せしたわけではないと思います。

ところで、状況が複雑になるとは、すなわち状況が悪くなるという場合があると思います。
 あらゆる事柄は、複雑になるほど解決が難しくなるものだと思います。
解決が難しくなるということは、状況は悪くなっているといえると思います。
 
内戦が始まったばかりのころだったら、大国が反体制派を宥めて引き下がらせたとしても、独裁者に与したとはいえなかったと思います。
一旦、内戦を収めてから、独裁者を叩くやり方があったと思います。むしろ独裁者を国際社会で罰するには、内戦を終わらせる必要があったような気がします。

しかし内戦にテロリストが加わり、それが強大な武装集団となった今では、大国は手の出しようがないと感じます。
テロリストを攻撃しても、内戦が収まる可能性は低いと見られます。しかもテロリストを攻撃することで、大国が独裁者の後ろ盾になってしまうこともあり得ると思います。

また、テロリストを根絶やしにすることなど不可能だと思います。
一つの組織を壊滅的な状況に追い込むことは出来るかもしれません。しかし完全に殲滅することは出来ないと思います。
そして仮に一つの組織に壊滅的な打撃を与えても、すぐに別の組織が台頭するものだと思います。

それに、独裁者に反する組織は、今でこそ共闘しているものの、仮にテロリストと独裁者が倒れたなら、必ず対立すると見られます。その対立は武力のぶつかり合いになると思います。
お互いに武器を持っているのですし、ずっと戦ってきたのですから、政治的な対立にはならないと思います。
そのような状況になると、またテロリストが入り込むと思います。

ずっと昔から、人間社会は怒りの感情に支配されていた一面があるような気がします。
近年その傾向が強まっていると感じます。情報伝達技術の発達が大きな要因の一つだと思います。

 そう遠くない将来、この世界は人間の怒りに支配され、それによって滅んでしまうかもしれません。