2014年9月1日月曜日

自我とナショナリズム

70年は長い時間だと思います。
その長い時間の中で、世界には多くの戦争や紛争や武力衝突が起きていると思います。
 しかしそのなかで、完全勝利した国や地域や勢力は、ひとつもないような気がします。
  
70年前と比べて、世界や国際社会は大きく変わったと思います。
 随分と複雑になっていると感じます。
そうなると必然的に、争いの構図も複雑になるような気がします。
 争いや対立は、その構図が複雑なほど、決着させることが難しくなるものだと思います。

どこかが完全勝利するのは、とてもわかりやすい決着の形だと思います。
しかし社会が複雑になり、決着させることが難しくなっているのですから、完全勝利という単純な形で決着することなど、出来なって当たり前だという気がします。

そして決着させることが難しくなったことで、はじめから考えることを放棄している者がいるかもしれません。
 終わらせ方をなにも考えないまま、争いを続ける統治者や権力者や実力者がいるかもしれません。
それは無能だといえるかもしれません。
端からそれを考えていない者がいるような気がします。
『どういう形で決着させるか』それを考えても答えが出ないため、『とにかく戦えばいい』と言っている統治者や権力者や実力者がいるとしたら、その人物はまさに無能だと思います。

今の人間社会は、争いや対立を終わらせることが出来なくなっていると感じます。
社会構造が複雑になったことは、その理由のひとつだと思います。
しかし、もっと深いところで変化があるようにも思えます。
それは人類の変化といえるかもしれません。
 人類が争いを解決する能力を失くしつつあると感じるのです。

 何度か書いていますが、誰もが自我を強める傾向があるように感じるのです。
「自我」とは、学術用語として用いられることもあるようですが、それにしても意味合いは概念的で、定義を言葉で書き表すことは難しいような気がします。
 個人的な「自我」という言葉の解釈は、『自分自身そのもの』であり『自分自身の存在そのもの』あり、『自分自身の存在そのものに執着すること』であり、『自分自身の主観に執着すること』であり、『自分の存在や主観を尊重する意識』というようなものです。
 もしかしたら、以前「自我」の個人的な解釈について書いたことがあるかもしれません。もし書いていたとしても、内容を覚えていませんので、今日の内容とは違っているかもしれません。

そのような自我が強まることで、人は誰もが引き下がることが出来なくなっていると感じます。
自分は『あくまでも正当であり、妥協や譲歩するいわれはない』と、強く認識する傾向があると思います。
それは、相対するものに向けた攻撃性を呼び起こすことがあると思います。
攻撃性には怒りの感情が伴いやすく、怒りの感情はもともと強い感情であるだけでなく、とめどなく高ぶりやすい感情で、それゆえに行動に影響を及ぼしやすいと思います。

対立する双方が、自己の正当性を一切疑わず、他者の不当性を強く信じ、対立する相手に攻撃性を強め、怒りを高ぶらせているのですから、争いが終わるはずがないと思います。
国際社会における戦争や紛争などではなく、もっと小さな規模の争いなら、完全勝利という終わり方もあるかもしれません。

しかしそのために色々な事物をつぎ込んでいるようなら、争うこと自体が賢明ではない場合も少なくないと思います。
争いが始まってしまった場合、多少引いてでも早めに終わらせるほうが得になることが多いと思います。
しかしそれに気づいていない人が多いと思います。
気づこうとしていないように見られます。

“自我”は、自分自身という“個”から、自分の家族、自分が属する学校や会社、地域、国などに広がる傾向があるものだと思います。
自分が属している集団や組織や国に対して、自我と同じような感覚を抱くことはよくあると思います。
自我を、集団や組織や土地や国に反映させているのかもしれません。
自国に対して“自我”のような感覚を持つことを、「ナショナリズム」という言葉で表すことが出来るような気がします。

「ナショナリズム」という言葉の意味について、以前書いた覚えがあります。ただ内容を覚えていませんので、今ここで書いていることは違っているかもしれません。
「ナショナリズム」は、概念的な意味合いで使われることが多い言葉だと思います。
 そのため便利に用いられることが多く、便利に使われることで、意味合いが曖昧になっているような気がします。
 今の個人的な解釈は『自国に対して抱く自我に近い感覚』というものです。

 複雑になるばかりの現代社会では、自我を強めることは、自分の利にならないことが多いと思います。

“ナショナリズム”が自国に対する“自我”ならば、ナショナリズムを強めることは必ずしも自国の利にならないという気がします。