数年前、中東各地で民衆による民主化運動が起きました。
俗に言う「アラブの春」です。
その影響は今でも、様々な形で世界全体に表れていると思います。
そういう意味では、世界に色々な混乱をもたらすきっかけになったという見方が出来るかもしれません。
言葉で表現するのが難しいのですが、世界中どこでも似たようなことが起こる雰囲気のようなものがあったと感じます
世界全体、あるいは人間社会全体に、雰囲気というか空気が漂っていて、それがうねりのような動きを誘発しているような感覚があります。
それが中東で一気に、目に見える形として表れたように感じられるのです。
何度か書いていますが、個人的に中東の民主化運動を“春”だと思えませんでした。
また、“革命”だとも思えませんでした。
“勢いにまかせたお祭り騒ぎ”だと感じていました。それらは今でも変わっていません。
そして、それでは政治は変えられないと考えていました。それで政治を変えようとすると、混乱をきたすと思っていました。
チュニジアで起こった民主化運動は、インターネットが大きな意味をもっていると思います。
当時にも書いた気がしますが、“インターネットの呼びかけによって大きな変化をもたらす”それが目的化していたと感じていました。
特に呼びかけを始めた人たちに、その傾向があったような気がします。
もちろん独裁者を倒すことは、大きな目標だったと思います。
それはゆるぎなかったと思います。
しかし、“インターネットの呼びかけで大きなことをする”それが目的として大きくなり、“独裁者を倒すこと”は、そのために掲げる目標になっているという感覚があった人もいたのではないかと思います。
ただその人たちの多くは自覚していなかったと思います。
それでも今振り返ってみると、『確かにそうだった』と思い至る人もいるかもしれません。
しかしそれを認めてしまうと、自分が熱を注いだ民主化運動がかすんで見えることもあると思います。かつて栄光を感じていたことを、自ら否定することは誰でも難しいものだと思います。
そのために、時間が過ぎでも、その後の様子を目にしても、あくまでもあれは“春”であり、あくまでもあれは“革命”だったと信じている人もいるだろうと思います。
またマスコミが民衆による民主化を殊更好意的に報じたことも、各地で同じようなことを起こす理由のひとつになったと思います。
それは報じ手の意識のなかにも、民衆とおなじものがあったと感じます。“インターネットの力で大きなことを成す”ことに対して喜びのような感情を抱き、讃えるべきだと考えていた報じ手が多かったと感じます。
そして、報じ手も民衆と同じように、先を見据えられていなかったと感じます。
「革命」は、定義が明確ではありませんので、中東の民主化運動も革命だと解釈できるかもしれません。
中東の民主化運動は、独裁者を倒すことを目指していたと感じます。それを成した国もあったと思います。
しかしその先も重要だったと思います。それを目指すことが革命だと思います。
政治体制をどのように変えるか、それが明確に思い描かれており、それを成すために独裁者を倒す、個人的に革命とはそういうものだと思っています。
中東の民主化運動は、“インターネットの力で大きなことを起こす”それが目的となり、“独裁者を倒す”それは目的を達するために掲げる目標になったため、本来重要な目的であるはすの、その先にどのような体制をつくるのか、それをどのようにして進めるのか、などに意識が向けられなかったと感じます。
そのように民衆を動かした、空気感というか雰囲気は、今の世界全体にあるように感じます。
また、今の世界では民衆が頑なになる傾向があるように感じます。
それは民衆の規模には関わらないと感じます。
“民衆”は人数が決まっているわけではないと思います。
数万人でも、数十人でも、民衆が頑なになる傾向があると思うのです。
そして頑なであることが、色々な形で様々な事物に影響を及ぼすようになっていると感じます。
それと、中東の民主化運動のように、民衆が実際に行動を起こすのではなく、インターネットの空間で“民衆”が出来ることもあると感じます。
その民衆も頑なであり、ゆえに影響力をもつようになっていると感じます。
個人的な印象ですが、近年、多くの人が自我を強めていると感じます。
そんな自我を強めた多くの人が、一つの事柄で集まるため、民衆が頑なになりやすいような気がします。
頑なな民衆には、多面的で大局的な視点が欠ける傾向があるような気がします。
そのため、“その先”が混乱し、芳しくない影響が大きくなり、それが世界中に広がることがあるような気がします。