2014年9月10日水曜日

人間さまの上から目線

 乗りなれた車、使い込んだ道具、お気に入りの日用品、そういうものを手入れしている時『きれいにしてやるからな。これからも頼むぞ』心のなかで話しかけていることがあります。
愛着心を頭の中で言葉にしたという感じです。それにしても、心の中とはいえ話しかけるということは、擬人化した認識を持っているような気がします。

 そのようなことが誰にでもあると思います。
ぬいぐるみや人形などは、車や日用品などよりも、擬人的な認識を持ちやすいと思います。
また、観葉植物や菜園の野菜に、人間と同じ意思や意識があるという感覚を持っている人もいると思います。

それらよりもずっと人間性を持っていると感じやすいのは、動物だと思います。
 動物の中でもペットに対しては、飼っている人の多くが人間と同じ意思があるという感覚をもっているように見られます。
 植物も生物ですが、やはり動いている生き物のほうが、擬人化した感覚を持ちやすいのだろうと思います。
 
また動物は言葉を発しないため、人間が自分でペットの意思を想像しやすいことも、疑似的感覚を持ちやすい理由の一つだと思います。
 ペットの世話をして愛情を注ぎ、仕草や動きから動物の意識を想像し、想像であるがゆえに、より愛情を高めるような内容になることも多く、さらに愛情を深めている人が多いような気がします。

 それがいけないことだとは思いません。
 ペットに対して文字通り猫可愛がりしている様子を目にすると、鼻につくこともありますが、飼っている生き物に愛情を注ぐことは、その人の精神面にもいい影響を及ぼすことがあると思います。
 人間と同じ意識があると認識することも、悪いことだとは思いませんし、飼っている人にとっても、飼われている動物にとっても、“いいこと”である場合が多いような気がします。

 つまりペットをかわいがることも、擬人的感覚をもつことも否定するつもりはありません。ただここでは、少し冷静な見方をしてみます。
 眼の機能や構造は生き物によって違うと聞きます。また多くの動物の嗅覚は、人間の数倍の感度があるといいます。
 耳による音の捉え方も違うでしょうし、体で触れた時の感じ方も、脳の大きさもその機能も、人間と動物は違うと思います。
動物は人間と同じ感覚を持っていないと思います。人間と同じように思考することはないと思います。
 ただ動物を飼っている人の多くは、そんなことわざわざ言われるまでもなくわかっていると思います。わかったうえで、擬人的感覚をもって愛情を注いでいるのだと思います。

 ところで人類は農耕を始めたことで、自分たちが食べる植物を、自らの手で作るようになったのだと思います。
 それから人類は畜産を始めたことで、自分たちが食べる肉を、自らの手で作るようになったのだと思います。
 ただ魚介類は、今でも自然界から採集している分が多いと思います。養殖もしていますが、漁によって得ている量も多いようです。

 作物は食べるために改良がくわえられつづけていると聞きます。畜産の動物も交配などによる品種改良が行われてきたようです。
 作物は遺伝子を操作することもあると聞きます。
畜産物も遺伝子を操作して、より美味しく、より効率的に生産されるように改良されるかもしれません。
 ウナギやマグロは遺伝子操作によって、簡単に稚魚から養殖できるようになるかもしれません。
 
そしていつか、泳がなくても美味しいマグロを作り出すかもしれません。そうなると室内プールで大量生産できるようになるかもしれません。
 マス目状の枠に一匹ずつマグロを収めて水に沈め、その枠から定期的にえさが供給され、水も定期的に清浄され、出荷できる大きさに育ったら、枠を引き上げてベルトコンベアにマグロを自動的にならべ、機械によって血抜きをし、そのまま梱包されてトラックに乗せられるようになるかもしれません。

 もしそんなマグロが作られたら、それは人間が食べるために作られた生き物といえるかもしれません。
『そのマグロは可哀想なのだろうか』ふとそんな疑問が湧きます。
『ブロイラーの鶏は可哀想なのだろうか。食肉用の牛や豚は可哀想なのだろうか。牛舎で育てらえる食肉用の牛は、放牧され人間の手を多くかけられた食肉用の牛より可哀想なのだろうか。豚舎の清掃も機械化され、エサの供給が自動化されたら、食肉用の豚は今よりも可哀想になるのだろうか』
 植物も生き物だと思います。稲や麦は人間が食べるために作られている生き物といえるかもしれません。
 稲や麦を可哀想だと感じる人間は、かなり少ないと思います。

 人間以外の生き物は、見え方も聞こえ方も感じ方も、人間とはちがうと思います。
 しかし人間は、人間の観念で動物を捉えていると思います。
 人間の価値観や考え方を勝手に動物に当てはめていると感じます。
 犬にとって盲導犬になることが可哀想なのか、そうではないのか、人間にはわからないと思います。
 
 しかし、面白半分に動物の体を傷つけ、その命を奪うことは、可哀想だと感じるべきだと思います。
 そのような行為は、社会的にも人道的にもゆるされるべきではないと思います。

 人として、ゆるされないことだと思います。