2014年10月11日土曜日

「ドライビングMissデイジー」ブルース・ベレスフォード監督作品

 僕が劇場で映画を観ていた頃と比べて、名画が少なくなっているような感があります。
 それは名作だと感じられる映画が少なくなったのではなく、“名画”という概念が希薄になっているためではないかと思います。
 若いころ、二十年以上前に製作された映画の中には、題名に聞き覚えがある作品がいつくもあったように感じます。
また、名台詞や名場面が語られる作品がいくつもあったような気がします。

現在、20~30年ほど前の映画で、題名や名場面や名台詞が語られる作品があるだろうか、考えてみます。
個人的にそのころは、劇場で映画を観ることが多かったので、色々な映画の題名や台詞や場面や俳優の演技が思い浮かびます。
ただそれらが、今でも語られるのは少ないような気がします。

僕が若い頃、30年前の名画について語られるより、現在、30年前の名画について語られる機会は、相当に少ないような感があります。
それは映画が、心に留まるものではなく、心を動かして通りすぎていくものに変わったからかもしれません。

かつて、20~30年前の映画が語られると、その作品には“名画”という印象を抱いたものです。
しかし現在、20~30年前に人気を博した映画を、「名画」と呼ぶことは少ないような気がします。
「名画」という言葉が廃れたように感じます。それは“名画”という概念が薄らいでいるためだと感じます。

 ただ「名画」と呼ばれなくても、古い“いい映画”は数多くあると思います。
そのなかでも、アカデミー賞など、有名な映画賞を受賞した作品は、後年でも目にしやすいと思います。
ただ毎年受賞作が出るのですから、過去の受賞作はとても多いと思います。
そうなるとアカデミー賞受賞作品のなかにも、よく目にする映画もあれば、それほど有名ではない作品もあると思います。
個人的な印象でいうと、「ドライビングMissデイジー」は、どちらかというと後者だと感じます。

先日、久しぶりにこの作品を見ました。ノーカットでテレビ放送された時に、VHSビデオで録画したものです。
企業CMはない放送局でしたが、映画の後、番組の宣伝が録画されていました。
そこから1992年の年末近くに放送されたことが窺えました。古いテレビ録画を見ると、それが何年に放送されたのか、意外にわかならないものです。
新番組や催し物のCMには、なん月なん日か表されるものの、多くの場合なん年かは告知されていないのです。
それが年末年始には、何年が暮れ、何年が明けるのか、示されているのです。

インターネットで確認すると、「ドライビングMissデイジー」が日本の劇場で公開されたのは1990年だとあります。
僕はそのとき劇場で観たのですが、まず感じたことは『アメリカ映画らしさ』でした。
この作品は高齢の女性が主人公で、1940年代後半から60年代までのアトランタが舞台です。
お金持ちの高齢女性と運転手との、年代や人種や立場を超えた友情が、物語の主軸だと感じます。
舞台となる年代と地域には、人種差別は大きな社会問題だと思います。
それは、今でもあまり変わっていないのかもしれません。
それほど根深い問題なのかもしれません。

「ドライビングMissデイジー」はあまり長くない作品なのですが、穏やかに情を揺さぶる、上手くまとまった脚本だと感じます。
ただそれは“こじんまり”という印象に繋がることもあると思います。
また情緒的な映画には、時間をつかった演出が効果をあげることがありますが、この作品では、その手法はあまり使われていないと思います。
演出に技巧性が感じられないため、アカデミー賞の作品賞を受賞しながら、監督賞は逃したのかもしれません。
ただ個人的に、凝ったところのない淡々と感じる演出も、この作品を上手くまとめている大切な要素だと感じます。

“社会問題を描き、情緒的でありながら、長くない時間で、わかりやすくまとまっている”
 それを『アメリカ映画らしい』と感じたのだと思います。
 ただそう感じたのは、この作品を観たとき、僕の意識の中に「八月の鯨」という作品があったことも理由の一つだと思います。

「八月の鯨」は、高齢の姉妹を描いています。
インターネットで調べると、日本公開は1988年とありますので、「ドライビングMissデイジー」の二年前に、僕は「八月の鯨」を劇場で観たのです。
 僕はまだ若かったので、本音をいえば楽しくてわかりやすい映画が好きだったものの、時々、映画通を気取りたがって、難しそうだったり、退屈そうだったりする映画も見ていました。
「八月の鯨」もそんな気持ちで観たのですが、本当に素直に『とてもいい映画だな』と思ったのです。

「ドライビングMissデイジー」と「八月の鯨」の共通点といえば、高齢の女性が主人公というだけなのですが、意識のどこかで比べていたのだと思います。