2014年10月25日土曜日

読む意識

 僕は、インターネットで目についた記事を印刷することがあります。
 その記事を読み返したくなったとき、もう公開されていないことがあるからです。
 インターネット上にあったとしても、過去の記事は見つけるのに時間がかかることがあります。
それに、ブラウザの“お気に入り”に入れておいても、時間が経つと別の記事が表示されたり、「おさがしのページは見つかりません」と表示されたりします。
結局、後で読み返す可能性がある記事は、印刷しておいた方が確実だし、時間をかけずに済むと思っています。

 そうして印刷したウェブサイトのページを読んでいると、なんとなく感じることがあります。
紙に印刷したほうが“ちゃんと読んでいる”と感じるのです。
文章を読むときは、その時々によって意識の集中の仕方が違うものだと思います。
目は文章を捉え、頭はその内容を取り込んでいるものの、同時に他のことも考えていることがあります。
“考えている”とは言えないまでも、今読んでいる文章とはまったく関係のないことが意識のなかにある、そう感じる時もあります。
 そのような読み方では、文章の内容が記憶にも印象にも残りにくいと思います。
 それは誰にでもよくあることだと思います。

 個人的に、パソコンのモニターに表示されている文章を読むときより、紙に印刷されている文章のほうが集中しやすいような気がするのです。
 もちろん、紙の本を読んでも意識が集中せずに、今読んだ一行に何が書いてあったのか、まったく頭に入っていないこともあります。
 
ただ振り返ってみると、インターネット上の文章を読むとき、なにか急いで読もうとする意識があるような気がするのです。
 はっきりと自覚できるほど強くはないのですが、なんとなく『雑な読み方をしている』と感じます。
 
また、インターネット上の一ページあたりの文章が、あまり長くないものを読みたがる心理があるような気がします。
 一ページに長い文章が記されていると、敬遠するような感覚が湧くことがあるように思います。
それは『早く読みたい』『簡単に読みたい』『手軽に読みたい』などの意識から来ているような気がします。
 そしてその意識は、紙に書かれた文章よりも、インターネット上に掲載された文章の方が強くなりやすいような気がします。

パソコンの画面に表示する文章には、電子メールや、文章作成ソフトを使って書かれたものもあります。
同じようにパソコンの液晶ディスプレーに表示した文章でも、インターネットで見るもののほうが、メールやテキストファイルよりも『雑な読み方をしている』という印象があります。

 僕は俗に言う“ななめ読み”があまり得意ではありません。
 ななめ読みもしますが、急いで読みたいときは、読む速度を上げることが多いのです。
 出来るだけ速く、目と頭で文章をなぞろうとするのです。
それによって内容がよく頭に入るときもありますし、脳内を素通りするかのように何も残らないこともあります。
 やはり文章に対する意識の集中度によって、理解度や記憶の残り方が違っているような気がします。

 僕はインターネット上の文章は、読む速度を上げる傾向があるような気がします。早く読もうという意識が自然に湧いているような気がします。
またななめ読みをすることも、紙に印刷された文章やメールやテキストファイルの文書などを読むときより、インターネットの文章の方が多いと感じます。

 人間は記録に残るものを『重要だ』と認識するのかもしれません。
 人間は長く残る形で表されている文章ほど、大切で重みがあると無意識に認識していると感じます。
 インターネット上の文章は消えてしまうことも多いと思いますし、公開されていても、時間が経つと見つかりにくくなることが少なくないと思います。
 長く残らないため、人間はインターネット上の文章に重みを感じにくいような気がします。
 お手軽で陳腐な言葉で表現すると「本能的」にそうなのではないかと感じます。

 パソコンにファイル保存される形式で表れた文章は、保存されることも多いと思います。
そのためインターネット上で公開された文章よりも、長く残る文章だと認識されやすいような気がします。
残る文章だと認識するため、『重要だ』と感じるような気がします。
そのため、“雑な読み方”をすることが少ないような気がします。

 また保存するにしても、生物のもつ感覚で『保存している』『記録が残されている』と感じられるほうが、必要性や重要性を強く感じているような気がします。
 パソコンの中や外部記憶媒体に保存されるより、物理的に保存されているものに重みを感じるような気がします。
 人間は、眼で見える形や、手で触れられる形で、残されているものを『大切で重要だ』と認識するのではないかと思うのです。

『重要書類や公的文書は、紙でなければならない』
 知識や経験などから、そう考えられているのだと思います。

 ただ人間として、または生物として、深い部分に何かそう感じさせるものがあるような気がします。