2014年10月18日土曜日

むき

少し前にインターネットで、有名な芸能人が週刊誌の取材姿勢を強い言葉で非難したという記事を読みました。
 その様子はテレビ番組で放送されたそうです。
 私はその番組を見ていません。インターネットで探せば動画が配信されているのかもしれませんが、それも見ていません。文字で起こされた発言を読んだだけです。また記事には、前後の会話がすべて書かれているわけではありませんでした。
 言葉は声にして発せられる場合、会話の流れや場の雰囲気、発言のタイミングや語調なども大切な意味を持つものだと思います。
 文字で書き表しても、それが伝わらないこともあると思います。
 今回はあくまでも、文字で起こされた記事を読んで感じたことを書きます。

 近しい人が亡くなると、人は色々な想いを抱くものだと思います。
 それは人それぞれだと思いますし、その時々だと思います。
 亡くなった人と残された人の関係によっても、沸き上がる感情は違うと思います。
 近しいとはいえ生前の関係によっては、まったく悲しいとは感じないこともあると思います。
ただ、深く悲しみ、とてもつらい想いをいだくことが多いと思います。

 なかには、穏やかに親しい人の死を受け止めている人もいると思います。
また、自分でも意外なほど悲しみが湧いてこないこともあると思います。
また、後悔や自責の念と共に、どうしようもないほど深い悲哀に押しつぶされそうになっている人もいると思います。
 ただ、近しい人や親しい人がいなくなったという事実は、人間にとってとても重みがあることだと思います。
その重みを背負い込むのだと思います。
それは他者にはわからないと思います。
 どんなに悲しんでいるか、どんなに苦しんでいか、どんなにつらいことなのか、他人には決してわからないと思います。
 わからないのですから慮るべきだと思います。
接し方によっては、悲しみやつらさを深めることもあると思うからです。

“多くの人が知りたがっている。だから伝えるべきだ。伝えるためには話を聞かなければならない。多くの人が望んでいる。だから踏み込むのだ。多くの人が望んでいる。だから聞かれた者は話すべきなのだ。それは有名人の宿命だ。果たすべき役割だ”
 芸能人である前に人間だと思います。
 記者である前に人間だと思います。
 記事を読みたがっている大衆も、みな人間だと思います。
 好奇心を満たすこと、悲しみに直面した人を思いやること、どちらが人として大切なのか、有名人である前に、マスコミである前に、大衆である前に、一人の人間として考えるべきだと思います。

 数年間、子供をなくした母親を取材した新聞記事を読みました。
 その子は、国内初の未成年脳死臓器提供者となりました。それは親の決断だったそうです。
 未成年からの臓器提供には様々な意見があると思います。問題点も指摘されています。
 それが国内で初めて行われたとなると、その情報を広く知らしめるのは、社会的に意義があると思います。
 どのような経緯なのか、指摘されている問題点に対して適正な対応が取られたのか、市民に伝えることで、検証することにもなると思います。
 しかしその母親も人間です。
 しかも自分の子供を亡くしたばかりです。
 しかもその子供の臓器を提供するという決断を下したばかりです。

 報じることに公共性がある事柄だと思います。しかしそれ以前に、気持ちを慮ることが必要だと思います。 
 母親本人から了承を得てインタビューをしたと書かれていました。
 冒頭に書いた芸能人の件でもそうですが、取材を申し込むことそれ自体、近しい人を失った人に対する思いやりに欠ける行為だと思います。
 取材を申し込んだから了解したのであって、息子を亡くした母親の気持ちに対して、インタビューを申し込むことそれ自体が、思慮の浅い行いだと思います。
 
 そしてこのインタビューは、読者からの批判に対して、新聞社や新聞記者が反発し、むきになって行ったふしがありました。私はそう感じました。
「読者の批判を真摯に受け止める」そう掲げても、実践するのは難しいと思います。それに読者の批判の中には、身勝手なものや理屈が通らないものが多々あり、すべて受け入れるわけにはいかないと思います。全てに対応するわけにもいかないと思います。
 批判されても受け流すこともあると思います。
 それでいいと思います。
 しかし上に書いたインタビューは、批判に対して記事で反撥したのだと感じました。
 
新聞ですから、批判に対して記事で反意を示すこともあると思います。
しかしこの件では、息子を亡くしたばかりの母親を巻き込んでいると思います。
言論機関ならば、言論で反論することも出来たはずです。
報道の意義を振りかざし、息子を亡くし、重く難しい決断をした女性のところに押し掛けて、取材するべきではなかったと思います。

そのインタビューを読んで、興味本位だという印象は受けませんでした。
しかし国内初の未成年化からの臓器移植を検証しているとも感じられませんでした。
取材することの意義を感じられませんでした。
新聞社に対する批判に対して、むきになって反撥した記事だとしか思えませんでした。

 批判に対してむきになって、子供を亡くしたばかりの女性に押し掛けて取材した、私はそう感じました。
私が勝手に感じたのですが、そう感じられるような取材姿勢だったと思います。
私はその姿勢を軽蔑しました。
そのような姿勢で紙面をつくっている新聞を読む気はなくなりました。
その新聞を読むことをやめました。
読んでいないので、今でもそのような姿勢で紙面を作り続けているのか、それとも何か変わったのか、わかりません。

わからないので、これからも読まないと思います。