2015年8月15日土曜日

東京裁判と一億総被害者意識

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2015年8月 15日「東京裁判と一億総被害者意識」


概要
自己犠牲を尊ぶことは、日本の精神構造に見られる一つの傾向だと思います。
 自己犠牲的な行いを讃たえ、美談として語ることは、日本に限らず世界各国で見られると思います。ただ日本人は、その心理的な傾向が強いと感じます。自己犠牲は誇れることだという感覚が強いように見えます。
それは戦時中、国による心理誘導によって強まったという側面があると思います。ただそれよりずっと前から、日本人は自己犠牲を尊ぶ精神構造があったように感じます。
ただ『自己犠牲は、自己陶酔を伴うものだ。陶酔とは心地よいものであり、むしろその心地よさを得るために、自分を犠牲にしていることが少なくない。即ち自己犠牲は、あくまでも自分のためである。その方が多い』という考えがあります。
 確かに一理あると思います。自己犠牲には、多かれ少なかれ自己陶酔や自己満足が含まれていることが多いと思います。しかし、自己陶酔や自己満足が非常に少なかったり、一切含まれなかったりする自己犠牲も、間違いなく存在すると思います。
また『状況はあまりにも厳しく、たとえ自らの命を犠牲にしても到底かなう相手ではない。しかしそれでも立ち向かっていく。そして死したとしても、その死は尊く、その心は美しい』という考えがあります。
『滅びの美学』という言葉があります。日本人には、古くからその観念があったように思います。
戦時中、国は日本人の精神構造を心理誘導に利用したように感じます。『お国のために喜んで命を捧げます』という信念を植えつけたのだと思います。
 特攻作戦を命じた軍人は、若者が命を落としても『一矢報いる』には程遠かったことを十分以上に承知していたと聞きます。承知していながら特攻を命じたと聞きます。
特攻によって命を落とした若者は『自らの命によって一矢報いることが出来る』と信じていたと聞きます。