2013年12月15日日曜日

嫌悪と怒りの螺旋階段




『自分はこの人から嫌われているな』
人間は自分を嫌っている人を、なかなか好きになれないものだと思います。むしろ、嫌われていると感じると、その人物を嫌いになることが多いような気がします。
ただ人間関係は複雑で多様なものです。自分は嫌われていると強く感じながらも、その人を嫌いになれなかったり、好きであり続けたりすることもあると思います。
肉親や異性に対する深い愛情などです。

自分が嫌われていると感じながらも、相手を嫌いにならないように努めることもあると思います。
また自分が嫌われていると感じながらも、相手を好きになろうと自分に言い聞かせることもあると思います。
肉親や異性だけでなく、生徒に対してそのように心がけている教員がいるかもしれません。先生に対してそのように努めている児童がいるかもしれません。
部下に対してそのように接している上司がいるかもしれません。上司に対してそのように考えている部下がいるかもしれません。

しかし、ときに一方的な思い込みや、強い執着心もあると思います。その場合、本当に好いているとはいえない場合もあると思います。
相手のことを慮ることが出来ないのでは、愛情ではないと思います。相手を好きだと思い込んでいるだけだったり、自分で自分を溺愛しているだけだったりすることもあると思います。

友人関係では、些細なことで『嫌いだ』と感じることがあると思います。そんなとき、その気持ちを抑えようとする人がいると思います。
嫌われた人も、何とか関係を修復しようと思い悩むこともあると思います。自分が嫌われたからといって、その人を嫌いにならないようにしようと心に決める人もいると思います。
そのようにして、傾いた友人関係を立て直す人もいると思います。

しかし、そうならないこともあると思います。些細なことがきっかけで『嫌いだ』と思うと、その感情がどんどん高ぶっていくこともあると思います。
『何から何まで気に入らない』『一挙手一投足に腹が立つ』『箸の上げ下げから呼吸の仕方まで癇に障る』そんな風に『嫌いだ』という感情が強まることがあると思います。

人間は、自分が嫌われていると強く感じるほど、自分を嫌っている人物を強く嫌う傾向があると思います。
それは、お互いを嫌いあうということになると思います。嫌われたものは相手を嫌いになり、その相手は嫌いになられたことでさらに嫌いになる。つまり、『嫌いだ』という感情を強めあうということになると思います。

『嫌いだ』という感情には、怒りの感情が伴うことが多いと思います。嫌いな相手を批判すると、『怒り』が湧いてくることが多いと思います。
何度か書いていますが、怒りの感情は発することで高ぶるものだと思います。人間は怒りを表に出すことで、さらに怒りを高ぶらせるものだと思います。

怒りにまかせて嫌いな相手を大声で罵倒しても、『怒り』が収まることはなく、強まっていくばかりであることが多いと思います。
罵倒や批判をすればするほど、『怒り』は大きくなると思います。鎮まることなど少ないと思います。
そして、怒りの感情が高ぶると、『嫌いだ』という感情も強まると思います。

しかも『怒り』は思い起こすことでも増幅すると思います。腹立たしいことを思い出すと、さらに怒りが増すように感じます。
そして怒りが増した状態で記憶されるものだと思います。
その記憶を呼び起こすと、また怒りが増すものだと思います。

そのように『怒り』が増幅することで、『嫌いだ』という感情も強まると思います。
お互いがそれを延々と繰り返すことも、珍しいことではないような気がします。
果てしなく『嫌いあう』ことになるかもしれません。
そこで『嫌い』は『憎しみ』に変わることもあると思います。
お互いが憎みあうことになるかもしれません。

人間の社会を見渡してみて、お互いが『嫌いあう』状況でどちらかが得をすることがあるのだろうかと考えて見ます。どちらかが何かを得ることはあると思います。
しかしそれは『嫌いあって』いなければ得られなかったのだろうかと考えると、そうだとはいえない場合が多いように思われます。

また、『嫌いあう』ことなく協調したら、もっと多くのものを得られる状況も多いと感じます。
しかし、『嫌いだ』という感情と、『怒り』の感情はそんなことを考えさせないのだと感じます。
無益に『嫌いだ』と『怒り』を高ぶらせているように感じます。