2013年12月28日土曜日

当たり前のこと?



「みんながやっているじゃないか」
「あの人もやっているじゃないか」
「だから当たり前のことなんだ」
「だからぼくもやるんだ」

僕は外国のことはわかりませんが、日本人は”他の人がやっている”、それが正当な理由になるという観念が強いと感じます。
その”他の人”が多ければ、「みんながやっているから当たりまえのことなんだ。だからぼくもやるんだ」といい、その”他の人”が一人だけだと、「あの人もやっているから、ぼくもやるんだ」という、そのような言葉を耳にすることが多いような気がします。

ときにそれは『言い訳』にもなっていると感じます。
子供はよからぬことをして怒られると、「みんなやっている」とか「あの子もやっている」ということがよくあると思います。
そんなとき、大人は「みんなはみんな」とか「あの子はあの子なの」などといって叱ることが多いと思います。
それでいて、自分が何か注意を受けるようなことをすると、「みんなやっている」とか「あの人もやっている」ということが多いと感じます。

”他者がやっている”それは、自分の行動に対する理由として必ずしも正当ではないと思います。必ずしも不当でもありませんが、行動の根拠としては弱いと思います。
その国によって状況が違っているのですから、『他の国のリーダーがやっている』ことが、『当たり前のこと』ではないと思います。
『当たり前のこと』とはいえないのなら、この国のリーダーが行った理由として成り立たないと思います。
子供の言い訳と同じように聞こえてきます。

国のリーダーが戦没者を慰霊する行為が近隣国との外交問題になっていない国と、この国とでは状況が大きく違うと思います。
状況が違うのですから、『当たり前のこと』とはいえないと思います。

個人と個人の関係でも、国と国の関係でも相手があることは難しいものだと思います。
どれだけ配慮をして誠意を示しても、誠意は数値化することが出来ません。いくらでも「誠意がない」といわれてしまいます。
些細なことに過剰ともいえる反応を示すこともあれば、全く無関係のことにもこじつけて非難してくることもあると思います。
信仰と外交は無関係だといくらいっても、そう受け取らない人がいることは事実だと思います。

ただそれは多かれ少なかれ、人間であるならそのような心理はもっているものだと思います。
そういう相手であっても関係をもっていかなければならないのがこの社会だと思います。
人と人でも、国と国でもそうだと思います。
国は『お隣さんともめてばかりだから、引っ越してしまおう』というわけにはいきません。そして何よりも、いがみあっていても得はないと思います。

近隣の関係によくない影響が出るとわかっていながら個人の信仰を優先するのは、一国のリーダーのとるべき行動ではないと思います。
もし、近隣との関係によくない影響が出るとは考えていなかったのなら、それは一国のリーダーとしてはあまりにも認識不足であり、一国のリーダーの場合、認識不足は即ち能力不足という見方も出来ると思います。

政治家のなかには、別の件における他の国の対応がよくないのだから、リーダーの判断は合理的だったという意見を述べ、リーダーは吹っ切れたのではないかと推察し、それを好意的に受け止めていると発言する人物がいるようですが、その発言は政治家としての評価を一層下げることになると思います。
一国のリーダーたるものが、”吹っ切れて”個人の信仰や信念を通すことをよしとするものは、政治に携わるものとして評価されないと思います。

そしてなによりも、亡くなった人に対して本当に敬意をもっている人は、それぞれの想いを抱いて命を落とした人たちを「国のため」などと一括りにはしないものだと思います。国によって否応なしに戦場に送られて、そこで命を落とした人のなかには、他の場所でねむりたいと思っていた人がいたかもしれません。しかしその意思を残すことは許されなかったのかもしれません。もしそんな人がいたのなら、戦ったことや、命を奪われたことばかりでなく、死んだ後でさえ国によって強制されているということになるのかもしれません。
一まとめにして「国のために犠牲になった」などということは、亡くなった人に対する敬意などではなく、自己満足や自己肯定かもしれませんし、利害のために言っているのかもしれません。