2013年12月19日木曜日

個の志向と、公の思考



 人間は、様々な事象から何かを感じ取るものだと思います。
会話で意思を伝え合う場合、言葉によるところが大きいと思います。ただそれだけではなく、語彙の使い方、声の抑揚、表情や仕草などから、感じられることも少なくないものだと思います。
近年は、インターネットを使った意思の伝達や交流が多くなったことで、言葉に頼る面が強まったと感じます。
そこで絵柄や記号など、視覚に訴えることで、言葉に頼ることの難しさを少しでも緩和しようとしているような気がします。

それにしても、言葉だけでも何かを感じ取るものだと思います。言葉だけの表現である文章からも何かを感じます。
また、言葉のない絵画からも何かを感じます。それに言葉も絵柄もない音楽からも何かを感じます。
人間はいつくもの感覚を組み合わせて、常に何かを感じているといえるかもしれません。

また情報を得ることで、何かを考え、何かを感じることもあるものだと思います。報道などを見聞きして、感情を動かされることも少なくないと思います。また色々なことを考えることもあると思います。
自然災害や事件事故の報道に触れることで、怒りや悲しみの感情が沸くこともあると思います。その感情が思考の方向を左右することもあると思います。
感じながら、考えているものだという気がします。

個人的に最近報道を見聞きして感じたことは、『外交と防衛を一元的に認識した思考回路ではない』というものです。
外交と防衛は本来切り離せないことだと思います。防衛における大部分は、外交のなかに含まれるような気がします。しかし、日本はその概念が希薄だと感じることがあります。
そうなると、外交と防衛を一元的に機能させる仕組みが必要だと思います。

しかし『結局、防衛に関する仕組みをひとつ作っただけ』だと感じることがあります。
『戦略的に考える』それは外交と防衛を一まとめにしなければならないと思います。
つまり外交上の影響の出方などを検討し、どのような効果があらわれるのか、どのような進め方が国のためになるのか、などを冷静に考える必要があるような気がします。
それが、防衛に関する戦略性しか感じ取れないのです。
外交と防衛を一まとめにした戦略性は感じ取れないのです。

それでは『外交と防衛を一元的に認識し、機動的な対応をとる仕組み』のではなく『防衛を強化するための仕組み』だという印象を受けます。
そしてそれには、”国のため”というより”個人の志向性”が強く反映されているという印象を受けます。
仕組みは必要、しかし肝心なのはやはりそれを運用する人間だということかもしれません。

その”個人の志向”とは、自分が強くなることを欲し、そのために力を持ちたがる心理、そのように感じることがあります。
権力や武力など、人間社会には様々な力があると思います。
国内の統治にしろ、外国との関係にしろ、”力”によるところを大きくしたいという志向を感じ取られることがあります。

そして”個人の志向性”が、”思考の方向性”を決めているように感じられます。
”個人の考え方”が優先されることになり、どのように進めていくことが、もっとも国とって望ましい展開にむけられるのか、という考えは薄いと感じます。
感情や個人の志向性に流されない、広い視野を冷静さが必要だと思いますが、そのような人物はそうそういるものではないのかもしれません。

”強さ”や”力”を欲するは、弱さの裏返しという心理が窺えることがあります。打たれ弱い人のなかには、”打つ力”を強めたがる心理傾向があるような気がします。
また、打たれ弱い人は、まわりに味方だけを集める傾向があるような気がします。
また、打たれ弱い人は、自分を受け入れてくれるところに行きたがる傾向があるような気がします。反撥されそうなところに行くことを、出来るだけ先送りする傾向がみられることがあります。それが結果的に”じらした”ことになる場合もあるように見られます。
前回、広く声を発する人たちの言葉に苦しめられと考えているために、そこにも味方ばかり集めることも、打たれ弱さの心理が反映しているように感じられます。
それと、打たれ弱い人は、それを他者からそれを指摘されることを嫌う心理傾向があるような気がします。
それは自分で弱さを認めようとしない心理によるのかもしれません。自分では自分の弱さから目を背けようとしているのに、他者から指摘されたのでは認めざるを得なくなるため、それは嫌なものだと思います。
ずっと昔から、争いは心理的に弱いものがはじめるものなのだという見方があるかもしれません。