2013年12月20日金曜日

愛という名のもとに



「愛ってなに?」
「愛するって、どういうこと?」
今までに散々語られてきた言葉だと思います。「愛」という言葉自体、数え切れないほど発せられ、書き表されてきたと思います。
そして、おそらくこれからも「愛」は語られると思いますし、歌われ、書かれていくだろうと思います。
「愛」とはどれだけ語られても、決して語りつくされることがないからかもしれません。

しかしそうはいうものの、実生活で「愛」を口にすることは、そう多くないような気がします。
もちろん人それぞれでしょうが、現実に「愛」という言葉を使うとなると、気恥ずかいと感じることもあると思います。
なんとなく芝居じみてしまったり、ありふれた印象を受けたりする場合もあるような気がします。

語彙には、それ自体に独自の雰囲気というかイメージを抱くことがあると思います。どの言葉に、どのような雰囲気を感じているかは、人それぞれだと思いますが、多くの人が同じようなイメージを持っている言葉もあるような気がします。
綺麗な言葉であり、あこがれをもちながらも、実際に口にしてしまうとなんとなく陳腐になってしまう、「愛」という言葉はそんな雰囲気があると感じます。
あまりにも綺麗すぎ、またあまりにも数多く見聞きしてきたために、そう感じるのかもしれません。

それでも語りつくされることはないということは、「愛」という言葉の奥深さを表しているような気がします。
奥深さを感じるのは、「愛」という言葉は明確に定義付けすることが難しいからかもしれません。「愛」は、心情や感情でもあり、概念や観念であるような気がします。
それらには形がなく、目で見ることも手で触れることも出来ないと思います。
しかし心情や感情や概念や観念はこの世界に溢れていると思います。

そして「愛」という言葉は、特定の一人に対して使われるばかりではないと思います。
他者だけでなく、自分に対して使うこともあれば、複数の人、大きな集団、人間ではない生き物、行為、モノ、コトなど、実に多様な対象に対して「愛」という言葉が用いられると思います。
僕が使っている国語辞典には「愛情・愛撫・愛称・博愛・情愛・恩愛・慈愛・母性愛・偏愛・寵愛・愛人・恋愛・愛読・愛唱・愛玩・愛校心・愛護・友愛・祖国愛・人類愛・愛惜・割愛」が「愛」の項目に書かれています。
そのほかに「愛育」「愛飲」「愛煙家」「愛敬」「愛嬌」「愛郷」「愛吟」「愛犬」「愛顧」「愛護」「愛好」「愛国」「愛国心」など、書ききれないほど項目があります。
このことからも「愛」という言葉がいかに多様な意味合いをもつかを表しているような気がします。
そしてそれは、「愛」に形がないことの表れともいえるような気がします。

ただ特定の一人の人物に対する「愛」ではなく、モノやコトや行為を対象にした「愛」には”綺麗すぎる”という印象はあまり受けないように感じます。
また人間であっても、特定の一人の人物に対する「愛」ではなく、対象が広がっていくほど気恥ずかしさはないような気がします。
「愛校心」や「愛社精神」などの「愛」は、「恋愛」の「愛」とは言葉の雰囲気が大分違うと思います。

ちなみにこの辞書で「愛国」は「自分の国を愛すること」とあります。
「愛国心」は「自分の国を愛する気持ち。祖国愛」とあります。
「愛」は「①いつくしむ。かわいがる。 ②大切にする。 ③惜しむ」とあります。
『愛国心ってなに?』
『国を愛する気持ちって、どういうこと?』
「愛」には明確な定義がないような気がします。そうなると、国を愛することにも定義をつけるのは難しいような気がします。

しかし国として「国と郷土を愛する心を養う」というのであれば、定義をつける必要があるような気がします。
そうしなければどのように”養う”かを決められないと思います。
愛する気持ちは、人によって形が違うと思います。
具体的にどのように定義をつけ、どのように養うのだろうかと思います。

『愛に実体はない。しかしこの世界に愛は厳然と存在している』
形のないものは、人によって見え方や感じ方が違うと思います。
本来、「愛」は人によって違うものだとすれば、誰かが抱いている「愛」がすべての国民にとって正しい「愛」だと押し付けようとすると、よくない方向に向かうことがあると思います。
それは形のない「愛」を型枠に押し込めることだという印象を受けます。
それでは、どこかに歪みが出てくるような気がします。