2013年12月9日月曜日

無用の長物



 人類史上最初の実戦における核攻撃が行われたのは1945年でした。
 現時点での人類最後の実戦における核攻撃が行われたのも1945年でした。
 どちらも、今から68年前のことです。
 それから、いくつかの国が核兵器を保有するようになりました。軍事大国は競い合うように核兵器を増やしていったように見られます。
 この68年間に世界各地で戦争や紛争があり、そこで軍事力が行使されてきたと思います。
 
 しかし核攻撃が実戦で行われることはありませんでした。
 いくつかの国が核兵器を持ち、しかもその数を増やし続けたものの、それが使われることは、現時点までなかったと見られます。
核兵器は保有することに意味がある兵器なのかもしれません。

戦争のやり方も68年間という期間があれば様変わりしていると思います。
近年は、出来るだけ的を絞った攻撃が行われる傾向があるような気がします。的確に標的だけを破壊するという戦い方といえるかもしれません。それにはあまり大きな破壊力ももつ兵器は求められないと思います。
その戦法で必要とされるのは、効率がよく破壊力が小さい兵器、目標を特定するための正確な情報、それを得るための技術、目標だけを的確に攻撃する技術、などだと思います。

核兵器は大きな破壊力をもつ兵器だと思います。それは広い範囲に大きな被害をもたらすということだと思います。
そうなると必然的に無差別性をおびます。多くの民間人の命を奪います。それは核攻撃をした側にとって有益ではない、今の世界はそうだと思います。
広範囲に莫大な破壊をもたらす核兵器をミサイルで遠くに飛ばす、そんな戦法は前時代的であり、過去のものだといえるかもしれません。

しかし軍人のなかには、過去の観念から脱却できない人もいるかもしれません。先のことを見据えることができず、古い戦法にこだわり続けることは軍人としては無能といわれることもあるかもしれません。ただ軍人が無能であることは、対立する勢力にとってはありがたいことだといえるかもしれません。出来るだけ無能なままでいてくれたほうがありがたいといえるかもしれません。旧態然とした組織構造が続いているところでは、人が入れ替わっても観念は変わりにくいものかもしれません。古い観念をもったえらい軍人が影響力をもっていると、時代遅れの兵器を有効な兵器だと信仰にも近い考えを持ち続けるかもしれません。それが軍人として有能なのだと思い続けるかもしれません。対立する側にとってはそのほうがありがい場合もあるかもしれません。

先日、放射性物質を積んだトラックが強盗にあったというニュースが流れました。放射性物質は捨てられていたそうです。
その後、数名の犯人グループが逮捕されたと報じられました。逮捕前の報道では、その射性物質は近づくと数分で命を落とすほど危険なものだと伝えられていましたが、犯人は被曝しているものの命に別状はないとのことです。

トラックの運転手が仮眠中におそわれたようですが、最初の報道を耳にしたとき、『こんなことがおきてしまうのか』と感じました。
そんな危険な放射性物質が二人組のトラック泥棒に盗まれてしまう、そんなことがおきてしまうことに、驚きと恐怖と不安のような感情を抱いたのです。

被曝した犯人の命に別状がないというのですから、はじめの報道が大袈裟だったのかもしれません。それに報道だけでは、くわしいことはわかりません。それにしても放射性物質の管理としては、あまりにも不十分だという印象を受けます。
一事が万事ではないと思いますが、原子力施設など放射性物質の管理体制はどうなっているのだろうという気持ちが強まってきます。

『もし放射性物質を無差別な殺戮に使おうとしたものがいたら。二人の男性が銃をもっていれば、放射性物質を手に入れられてしまう』
『もし核兵器で世界を滅ぼしてやろうとする者がいたら。核兵器は厳重に管理され、テロリストの手に渡ることなどないだろう。誰もがそれが当たり前だと感じている。でも本当にそうだろうか』

使い道のないものは、無用の長物といわれます。
使い道のないものを、もてあますことがあると思います。もてあますものは、自然と意識が薄らぐものだと思います。管理がずさんになることもあるような気がします。
意識も人手もお金も、無用の長物には注がれなくなっていくことがあるような気がします。
しかし核兵器の場合、それは許されないと思います。現代の「核の脅威」は核兵器がテロリストの手に渡ることだといえるかもしれません。
核兵器を持っていることが、国にとっても軍にとってもデメリットになることもあるかもしれません。