2014年5月12日月曜日

力を持ちたがるもの。力を使いたがるもの

“弱い者が自ら身を守るために、銃を携行してよいという法律が発せられたら”
弱い者の身の危険が高まることは間違いないと思います。
弱い者を守る法律ではなく、弱い者を危険にすることに繋がる法律といえるかもしれません。

“銃の規制が緩められ、一般人が簡単に銃を手にすることが出来たなら”
犯罪者が銃を手にすることは間違いと思います。
犯罪を抑止する法律ではなく、犯罪を増やし凶悪化させることに繋がる法律といえるかもしれません。

犯罪者は弱い者を標的にするものだと思います。
手軽に銃をもつことが出来るようになれば、犯罪者は銃をもって弱い者を狙うことが増えると思います。
そこで弱い者に銃をもって自衛するようにすすめるかもしれません。ただそうすると犯罪者はより強い銃をもつようになるような気がします。自動小銃などです。
そこで弱い者も自動小銃を手にするかもしれません。
社会に銃があふれるようになり、自動小銃があふれるようになり、それらが犯罪者の手に渡しやすくなり、その銃口は弱いものに向けられるようになると思います。

人は力を得ると、それを使いたい欲求を抱くものだと思います。武器とは“力”の一つだといえるかもしれません。
人は武器を手に入れると、それを使いたいという欲求をもつものだと思います。
 その欲求は誰にもあると思いますが、欲求の強さは人によって違うと思います。
また、武器の種類や能力や状況や環境によっても違ってくると思います。

欲求の形や強さは様々だとすると、その欲求を抑制することも、そのときの状況や個人によって様々だと思います。
ある状況では欲求を抑えた人も、別の状況ではためらうことなく武器を使うこともあると思います。
しかし後で冷静に振り返ると、その状況では銃を使う必要などなかったと思えることもあるような気がします。
ただ、銃をもっていなければ、それを使う選択肢はありません。銃をもっていれば、それを使う選択肢があります。
人は、持っていると、それを使う選択肢に引かれやすいものだと思います。

そして人間は一度武器を手にすると、それを手放したくないものだと思います。
武器が力の一つであるならば、武器を手放すことは自らの“力”を弱めることだと感じるような気がします。
それは自分が弱くなるような感覚に近いものがあるかもしれません。それでは不安になったり、心細くなったりするなど、あまり好ましい感覚ではないと思います。

しかもすでに社会に銃があふれている状況では、自分が銃を捨てても、他者は銃を持っているかもしれないと感じるような気がします。
他者が銃を持っているのならば、自分も銃を手放すわけにはいかないと思う人も少なくないと感じます。

そして社会では、武器は強くなり続け、武器は増え続けるものだと思います。
武器をもつ者は、武器を持たぬものより優位にいると感じるものだと思います。
武器をもつ者は、他者よりも強い武器をもつことで優位に立とうとするものだと思います。
他者より強い武器を持つ競争をし、それはとどまることはないような気がします。

そして世界は武器があふれることになると思います。
武器があふれるということは、武器を使う選択肢もあふれる、ということになると思います。
選択肢があふれているのですから、選択されることが増えると思います。

最近、武力を使いたい者が、その使い方を決めるのは、危険を含んでいると感じます。
武力を使う必要性云々よりも、とにかく何がなんでも武力を使いたいようにしたいという意識が感じられます。
それはなりふり構わないとさえ感じることがあります。周囲の状況が良く見えていないような気がします。
組織に属するものは、上の人間が聞きたがっていることを、言う心理が働く場合があると思います。意識的である場合もあれば、無自覚の場合もあると思いますが、上の人間が求めている内容の話をすることがあると思うのです。
それは調査や状況分析にも反映されることがあると思います。上の人間にとって好ましい報告がされる傾向があると思います。しかしそうなると、それが正しい分析ではない場合もあり得ると思います。
武力を使えるようにすることに関して、周辺にある潜在的な危険性と、潜在的な危険の不安定性が、冷静に分析されていないような気がします。分析、調査する人間が、上の人間が求めている方向に思考が引かれているのかもしれません。
また、武力を使いたがっていると見える人間が、その使い方を決めることそれ自体が、状況に影響を及ぼす要因だという認識が低すぎると感じます。
今の人物が決定すること、それ自体が危うさの元になる、しかしその大きさを小さく見積もり過ぎているということです。
その危うさの元が、大きくなっていることに気づいていないような印象があるのです。しばらくは今の人物が決定しようとしていることだけでも牽制になるような気がします。そうしながら時勢を見定め、場合によっては、決定は次の人に持ち越したほうがいいかもしれません。しかしその道を狭めすぎているようにも見られます。それ自体危ういことだと感じます。