2014年5月19日月曜日

古い辞書を引きながら

最近「着地点」という言葉を見聞きすることが増えたような気がします。
 その多くが「妥協点」という意味合いで使われていると感じます。
 社会にはあらゆる対立があると思います。対立している双方が一歩も引かなければ、対立は延々と続くこともあると思います。
対立が激しくなることもあると思います。そうして血が流れることもあると思います。
 激しくなり続ける対立や、収まる方法すら見いだせない対立は、双方にとって得るものがなく、むしろ双方がひらすら失い続けている場合もあると見られます。
 
そんな事態を収める方法の一つに、対立している双方が折り合うことがあると思います。
お互いがすべての要求と通すのではなく、双方が『ここまでならひき下がってもやむなし』と妥協できる内容を受けいれることで対立を収めるということです。
多少妥協してでも、延々と対立を続けたり、制御できないほど激化したりするよりは、事態を収めたほうがいい場合が多いと思います。
その“双方が妥協できる内容”に対して「着地点」という言葉が使われていると感じます。

 ちなみに僕が使っている国語辞典には「着地点」が出ていません。「着地」はあるのですが、その項目に「点」がつく場合の意味は記されていないのです。
「①地面に着くこと。着陸。②到着地。③器械体操で、演技を終えて地面に降り立つこと。またスキーのジャンプ、陸上のハードルなどで飛躍した後に地面に足が着くこと」
「着地」の意味はそのように書かれています。
 
この国語辞典は、もう30年ほど前から使っているものです。そんな古い辞書では、言葉の意味や読みを調べるには適していないと思います。
言葉の意味合いや読み方などは、変わっていくものだと耳にします。そのため辞書の内容も、時おり改められるのだと思います。
言葉の意味や読み方が変わっているのですから、それを調べるには常に最新の辞書を使うべきだと思います。

そう思いながら、僕は古い辞書を使っています。言葉の意味や読み方は、インターネットで簡単に調べられます。ただその言葉が、古い辞書にはどのように書かれていたかということは、インターネットで見つけるのは大変だと思います。
つまり、古い辞書を使うことで言葉の変化を感じ取ることが出来るのです。

それに30年ほどまえのものでも、辞書としての実用性がすっかりなくなっているわけではありません。
意味や読み方が変わっていない言葉も数多くあります。
そしてこうして古い辞書を引くことで、あらためて思うことがあります。
「着地点」が僕の辞書にないことで、見聞きする頻度が高くなったことのは、つい最近だという気がしたのです。
そしてこの言葉が、対立を収めるために双方が妥協できる内容というような意味合いで使わるようになったのも、つい最近のことだと感じます。
 古い辞書を引かなければ、そんなことは思わなかったかもしれません。
 
「落としどころ」
 最近この言葉もよく見聞きするような気がします。僕の国語辞典には「落としどころ」もありませんでした。
 この言葉も、見聞きする頻度が増えたのは最近のだという気がします。
 意味合いとしては、「着地点」と同じだと感じます。つまり対立している事柄で、双方が妥協できる内容ということです。
上に「妥協点」と書きましたが、僕の国語辞典には「妥協点」も出ていません。「妥協」の項目に「妥協案」はあるのですが、「点」がつく場合について記されていないのです。

「着地点」も「落としどころ」も、最近使われるようになったとなると、なにか理由があるのだろうかと、なんとなく興味を引かれます。
 そこで考えてみると、交渉や対立に“地点”とか“ところ”という概念が持ち込まれるようになってきたためかもしれないと思いました。
かつてそれはなかったのだと思います。
 
対立する事柄を図式でイメージするようになっているのかもしれません。
双方の要求を両端に配置した横線を連想しているのかもしれません。また、十字の座標をイメージし、対立している人や集団などを配置するような認識をしているのかもしれません。
映像媒体によって、そのような表現を目にする機会が増えたため、人は無意識に対立の構図を図式で認識することが増え、そのため“点”や“ところ”という概念が受け入れられるようになったのかもしれません。
「着地点」や「落としどころ」という言葉を“しっくりくる”と感じ、それらの言葉が用いられることが増えたのかもしれません。

そしてなにより、社会に対立が増えていて、その多くが折り合いをつけることが難しくなっていると感じます。

それが「着地点」や「落としどころ」という言葉を耳にする機会が増えた理由の一つだという気がするのです。