2014年5月1日木曜日

言葉とあふれる情報

ここでは言葉の誤用やアクセントについて、何度か書いています。
 書くたびに感じている風潮のようなものがあります。
 その“風潮のようなもの”はいくつかあるのですが、それらは強まる一方だと感じています。
 
 言葉使いや熟語の読み方などは、間違っていてもそれに気づいていない場合があります。
 また知識では間違っているとわかっていても、“ついうっかり”使ってしまう場合もあると思います。
 また“もう定着している”とか“今の時代なら、間違いとはいえない”と考えて、誤用だと指摘があるかもしれないが、あえてその言葉を使っている場合もあると思います。

ただ言葉の誤用やアクセントに対する感じ方は、人によって随分違うと感じます。
 例えば、俗にいう“らぬき言葉”を耳にするたびに『間違った言葉使いだ』と感じるものの、他の言葉の誤用にはそれほど気にならない人がいるような気がします。
言葉の誤用やアクセントは“気になる言葉”と“気になる度合い”に個人差があると感じるのです。
 その“個人差”が広がっている風潮があるような気がします。

そして“気になる度合い”は、強まっている印象があります。
 熟語の読み方もそうですが、『間違っている』ことに気づくと、それを強く指摘したくなり、場合によっては非難したくなる風潮があるような気がするのです。
 そのため、言葉の間違いをなくそうとする風潮が強まっていると感じます。熟語にはいくつかの読み方が定着しているものがありますが、もっとも無難というか“本来はこの読みが正しい”という読み方が使われることが増えていると感じます。

また、自分が正しいと考える言葉に対する執着心を強めていると感じることがあります。
他者の誤用が強く気になるのは、自分が“正しい言葉”を知っているという優越感のような心理があるような気がしますが、その自分が知っている正しい言葉に“固執”しているような印象を受けることがあるのです。

 それにはインターネットなど情報伝達技術の進歩が関わっていると思います。
 インターネットを使えば、言葉使いや漢語の読み方など、手軽に調べられると思います。そして間違いだとわかると、インターネットを使って指摘することが出来ると思います。
報道などで言葉の間違いに気づくと、それを指摘して非難することが簡単に出来る時代だといえるかもしれません。
そしてそんな時代だからこそ、言葉を発する側は間違いがないように十分に気を配るようになったと感じます。そうしなければならないのだと思います。
インターネットでは、非常に多くの声が、非常に短時間で集まると思います。
一瞬にして非常に多くの批判がインターネットで寄せられると、それはあらゆる点において不利益につながることもがあると思います。
そのため、出来るだけそうなることを避けようとするものだと思います。

そんななか、パソコンの文書作成ソフトを使うと、言葉の間違いを指摘してくれます。
インターネットや文書作成ソフトの普及によって、世の中から言葉の間違いが少なくなっているといえるかもしれません。
ただそれは、無難な言葉が増えているといえるかもしれません。また、言葉の変化を抑えているといえるかもしれません。
言葉は変わり続けるものだといわれますが、技術の進歩はそれを抑える働きをしているような気がします。
ただそれは善し悪しで語ることではないような気がします。

ところで大分前ですが、「大地震」の読み方について取り上げた覚えがあります。
以前は「だいじしん」という読み方が多かったような気がします。個人的な感覚では「だいじしん」が主流だった印象があります。
近年では「おおじしん」という読み方が多いと感じます。
「だいじしん」が「おおじしん」に変わった感があります。

 インターネットで調べると、「大」の読み方は、その後に続く語の読み方によって変わるようです。「大」の後に続く語を音読みする場合は「だい」で、訓読みする場合は「おお」と読むそうです。
それに照らすと「大地震」の場合、「だいじしん」なのですが、例外的に「おおじしん」という読むことが慣例になっているようです。
ただ平成7年の調査では8割近い人が「だいじしん」という読みかたをしていたそうです。

8割の人が「だいじしん」と読んでいたとなると、この調査が行われた時点では、その読み方が“慣例”になっているといえるような気がします。しかも、「だいじしん」は“例外的ではない”読み方です。
それならば、そのまま「だいじしん」という読み方が定着してもよかったような気がします。

“原則に沿った読み方が慣例化しているのに、わざわざ例外的な読み方に戻した”
 そんな印象を受けます。
近年では「だいじしん」という読み方を耳にすることは少ないと感じます。間違った読み方だと指摘されることもあるかもしれません。
 言葉に対する執着心と、無難さを求めた“右へならえ”があると感じることがあります。