2014年5月17日土曜日

その手には乗らないよ

人は褒められると心地いいものだと思います。褒めてもらおうと努力をすることがあると思います。
 しかし人間は相手の思惑を感じ取ると、それに逆らおうとする心理があると思います。
『きっと褒めて伸ばそうと思ってんだろうな。だから、大していい結果でもないのにわざとらしく褒めているんだろうな』
 そのように感じ取ると、『その手には乗らないよ』という思いが湧いてくることがあると感じます。
 やる気を出させようとして褒めても、あまりに作為的では逆効果になることもあると感じます。

ところで、アニメにもなった小説「トム・ソーヤの冒険」にペンキ塗りの話があります。
 主人公の少年トムは日々騒動を巻き起こしているのですが、騒ぎを起こした罰として、休日にとても長い塀にペンキを塗るように命じられます。
 それはトムにとっては苦役でした。罰ですので当然なのですが、とてもやる気になりません。そこでトムは悪知恵を働かせます。

 友達が通りかかると、いかにも楽しそうにペンキ塗りをするのです。その友達はペンキ塗りが楽しいはずがないと思うのですが、トムがあまりにも楽しそうなので、やらせて欲しいと頼みます。
 しかしトムは簡単にはやらせません。すると友人はさらにやりたくなって、ビー玉をあげるから、やらせて欲しいと言います。
 そこでトムはいかにもしぶしぶといった体を装い、しかも塀の範囲を限定して、その友人にペンキ塗りを代わってやります。
 トムはこの手を使って、通りがかった友人全員にペンキ塗りを手伝わせます。

“自分ではやりたくないことを、いかにも楽しそうにやってみせたり、楽しいことだと言い聞かせたりして、他の人にやらせる”
 実生活でそれをやろうとしている人を目にすることがあります。
 親が子供に手伝いをやらせるとき、それが楽しいことだと思わせようとする場合などです。
また、親から手伝いを命じられた子供が、それを兄弟に押し付けようとして、いかにも楽しい振りをする場合もあると思います。

狙いどおり、嫌なことを押し付けられるかもしれませんが、失敗することのほうが多いような気がします。
それは子供でも相手の思惑を読み取っているからかもしれません。
『楽しいって言ってるけど、本当は楽しくなんてないのに、僕にやらせようと思って嘘をついているんだ。その手には乗らないぞ』
「庭の草むしりは楽しいな。こんなに楽しいんだから絶対に他人にはやらせられないよな」
「そう。じゃ一人でやれば。ばいばい」
 人は思惑を感じ取ると反撥するものだと思います。
 
賛同する者ばかりを集めなければ、ことは進まないかもしれません。
 自分に賛同する者だけを集めて意見を出させれば、意に沿ったものになるのは当たり前だと思います。
 しかし同じ方向を見ている者ばかりが話しあっていると、視野が狭くなり客観性に欠けることもあるような気がします。

“やりたいことをやるにはどうすればいいか”
そんな話し合いばかりしていると、“やりたいこと”の本質や意味や、影響が見えなくなることがあると思います。
しかしそれでも“やりたいこと”を改めて見直すことはなく、あくまでも“やりたいことをやるにはどうすればいいか”ということしか考えていないと感じます。
何を穿り返し、何を後付し、どのような言い回しするか、そのようなことばかり必死で考えていると感じます。

 少し前に外国をまわって演説していましたが、あまり高い評価は得られていない感があります。
“やりたいこと”をやるため、それに沿った言葉を並べていると受け取とられているような気がします。
 一国のリーダーたるものが、自分のやりたいことをやるために、いかにも我が国のためにもなるような言い方をしいると感じた人がいたかもしれません。
 それは“思惑を感じ取った”ということになるかもしれません。
 
思惑を感じ取ると、人は反撥するものだと感じます。あざとさや小賢しさを感じるからかもしれません。
 “やりたいことをやるにはどうすればいいか”それしか考えていない人たちは、反撥があるとさらに必死になり、それによってさらに思惑が強く滲み出ることがあると思います。
 あざとさや小賢しさが滲み出るといえるかもしれません。
 なんとなく、言えばいうほど説得力がなくなっているような気がします。与党慎重派のいうことの方が、ずっと説得力があるように感じられます。
子供は自分がやりたいことがあると、一生懸命に理由づけをするものだと思います。こじつけのような理由をひねり出し、後つけするものだと思います。
今、上に立っている人は、なにかにつけて“子供っぽい”と感じます。

 それ以前に、この国のリーダーが“やりたがっていること”が、早期に実現されることを、全面的に歓迎している国は、今の世界には相当に少ないような気がします。
 もしかしたら、この国のリーダーが“やりたがっていること”が、早期に実現されることを、全面的に歓迎している国は、今の世界にはひとつもないかもしれません。 

 それが見えていないというか、視界に入っていても都合のいいような見方をしていると感じることがあります。