2014年5月8日木曜日

「学ぶこと」と「教わること」

「学ぶ」と「教わる」は、同じ意味ではないと思います。

「学ぶ」ことは一人でも出来ることだと思います。

教える人がいなければ、「教わる」ことは出来ないと思います。

 

“教わる”は“学ぶ”のなかに含まれていると思います。

“学ぶ”のほうが先にあるといえるかもしれません。“学ぶ”方法の一つに“教わる”があると思うのです。

他者から教えてもらうことは、“学ぶ”方法の一つに過ぎないと思います。

そして、自らの意思で“学ぶ”ならば、“学ぼう”という意識が不可欠なような気がします。

“教わる”ことも“学ぶ”方法の一つであるとすれば、“教わる”ときには“教わろう”という自分から働きかける意識が必要だと思います。

 

個人的な印象ですが、日本人は『学ぶことは、すなわち教わることである』という観念が強いような気がします。

“教わること”が“教えてもらうこと”である場合もあるような気がします。“教わること”に対して能動性や積極性が低いと感じることがあるのです。

 もちろん個人による違いもありますし、おなじ人物でも事柄によって“学び”の取り組みかたが違うと思います。

積極的かつ能動的に“教わろう”と強く意識して学んでいる人もいると思います。

 ただ日本人に見られる傾向の一つとして、“教わる”は受動的意識が強いような印象があります。

 

 それが“教える人”を重く見る傾向に繋がっているような気がします。

“教える人”の“教える技量”を重要視する傾向があると感じます。

“教える人”が職業としてその任に就いている場合、“教える技量”は高い水準を求める風潮があると感じることがあります。

 また“教える人の責任”を重く見る人もいるような気がします。

“学び”に関して上手くいかなかったり、成果が出なかったりした場合、“教える人の技量”を問題視したり、“教える人の責任”を追及することがあると聞きます。

 

個人的な考えですが、“教える技量”は主観的要素が大きく、また結果論である場合も少なくないような気がします。

世の中にはあらゆる事物に“技量”があり、それらは様々な基準で判断されていると思います。

“教える技量”については、有名大学の合格率とか、スポーツの結果などが基準にされることがあると思います。

 それらは“教える技量”も重要だと思いますが、本人の資質や努力や気構えや、周囲の助力や、偶然性など、様々な要素が関わっていると思います。

 結果は“教える技量”の判断材料にはなると思いますが、絶対的な基準には成り得ないと思います。

 また“いい先生”や“いいコーチ”は思い出であって、評価ではないことが多いような気がします。

 

“教える”とは、人間と人間の間で行われることですので、相性はあると思います。人間性の相性の良し悪しがあると思いますし、指導法など“教え方”にも教える側と教わる側、双方が『合う』と感じる場合もあれば、『合わない』と思うこともあるような気がします。

何事も“教える人”と“教わる人”が『合う』とは限らないと思います。

 

 世の中では、教えることに長けた人から教わることが出来るとは限らず、相性のいい人から教わることが出来るとは限らないと思います。

そうなると、“学ぶ”ことから、“教える人”に対する依存度を低くする必要があるのかもしれません。

『誰が教えようと構わない』というと少し雑な言い方かもしれませんが、『先生と“合う”とは限らない』『担当教員の“教え方”が上手いとは限らない』それを前提とするということです。

“教えてもらう”、それよりも“自ら学ぶ”意識を高めるようにした方がいいような気がします。

児童・生徒の場合、周囲の大人がそのように導くことが求められるような気がします。

 

小中高校の教員は、教員になるための試験があると聞きます。それは“教える技量”が求められているのだと思います。

大学の教員は“教える技量”は問われないそうです。その分野に長けた人物が教員として学生に教えているそうです。

それは、教え方が上手い人から“教えてもらう”のではなく、その分野に長じた人から“学びとる”ことが大学生には求められているのかもしれません。

大学生になれば“教えてもらう”のではなく、よりも積極性をもって教わるべきであり、より能動的に“学びとる”という意識をもつべきであるのかもしれません。

 

大学生の多くは小中高校で学んできたと思います。12年間、教わることを経験しているといえるかもしれません。年数だけを見ると、短くないと思います。

そうなると、ある程度“教わりかた”や“学びかた”を身に着けている人が多いような気がします。

また“切り抜けるすべ”を身に着けている人もいるような気がします。

ただ以前より、そのような人が少なくなっているのかもしれません。

小中高校のころ、大人たちの間で“教える人の技量”や“教える人の責任”を重んじる傾向が強かったからかもしれません。